諫早。
2005年10月15日早朝、4時に出発して高速バスで小林より、職人さんと長崎・諫早に太陽光発電の工事にむかう。
午前3時過ぎに休みを告げられてもそう簡単に交代要員は見つからぬハズでみんなまだ寝入っている時間である。
少数精鋭を決断しがたく応援を6時過ぎに頼むがムゲナイ「返事。
咲きつきに暗雲がたれてる普賢岳状態。
熊本新港からフェリーで1時間かけて島原港ぬ着く
軽と普通車なのに同じ料金で7000円なにがしが怪しと気づき
聞くと710円も帰ってきた
さらに往復の話を聞くと片道が半額になり、閉めて9000円何がしで2100円ぐらい安くなる
ナンダ!ここの料金徴収体系。
ホリエモンだの三木谷だの小林ファンドなど新人類が拝金思想を早めている。
何もニュースになってる部分だけでなくここでも厳しき徴収制度があったのである。
ホント!怖いわ
諫早着は12時過ぎ。
小長井町の隣の高来町で深山で焼くうに、ハマグリ、サザエをご相伴にあやかる。閉めて2000円は大変お得。
何年ぶりであろう。ケムイ!なかを焼きあがるのを待ち煙で充満するのをひたすら我慢した。
おいしいものを食するのは我慢の子。
幼きころ囲炉裏を囲む風景を思い出していた。
作業の合間に宿泊所探し。
有明旅館を予約する。
この粉が胃腸は風力発電のある町でアッタハズ。
有明湾を一望するカーブを曲がり探すが見れなかった。
途中仏石を立ち見。
由来を控える。
二階のみ架台完了。
午前3時過ぎに休みを告げられてもそう簡単に交代要員は見つからぬハズでみんなまだ寝入っている時間である。
少数精鋭を決断しがたく応援を6時過ぎに頼むがムゲナイ「返事。
咲きつきに暗雲がたれてる普賢岳状態。
熊本新港からフェリーで1時間かけて島原港ぬ着く
軽と普通車なのに同じ料金で7000円なにがしが怪しと気づき
聞くと710円も帰ってきた
さらに往復の話を聞くと片道が半額になり、閉めて9000円何がしで2100円ぐらい安くなる
ナンダ!ここの料金徴収体系。
ホリエモンだの三木谷だの小林ファンドなど新人類が拝金思想を早めている。
何もニュースになってる部分だけでなくここでも厳しき徴収制度があったのである。
ホント!怖いわ
諫早着は12時過ぎ。
小長井町の隣の高来町で深山で焼くうに、ハマグリ、サザエをご相伴にあやかる。閉めて2000円は大変お得。
何年ぶりであろう。ケムイ!なかを焼きあがるのを待ち煙で充満するのをひたすら我慢した。
おいしいものを食するのは我慢の子。
幼きころ囲炉裏を囲む風景を思い出していた。
作業の合間に宿泊所探し。
有明旅館を予約する。
この粉が胃腸は風力発電のある町でアッタハズ。
有明湾を一望するカーブを曲がり探すが見れなかった。
途中仏石を立ち見。
由来を控える。
二階のみ架台完了。
4月28の日記
2005年4月28日筑前の国は黒田家。太陽の子たる秀吉にして唯一畏怖する対象者であった黒田如水。
拾六町にパネルを上げ発電所たる工事を終えた。
黒田節に歌うがごとくの御仁が居られる。♪さ〜けは、のめのめ飲むならばこれぞまことの黒田節♪
そんじゅ、そこいらに居られる紳士ではない。
ジョイフルなる貧乏人のお食事どころでビールで乾杯!
この方はじめてのようである。なんでこんな安ぃっと〜
「お足」を知らない落語の君がごとくである。
それからはご自宅で酒池肉林がごとくで本位ではない。
午前二時。怪物たる、オットット!清廉潔白といわないと怒るぞよ。みごとなる酒飲みの兵もの。
只今討ち死にで静かなる事。静かなるがごとくのジョン・ウェン。でダウン!・ワン!ツゥ!スリッ!
団塊の世代は酸いも甘いも嗅ぎ分ける。
ほとんどの経験、ある意味で江戸の生活を知っている世代でもある。。
なんとなれば日本は明治期の日清日露を経て資本蓄積をして列強に方を並べた。
その遺産を食い潰して「0」からスタートしたのが団塊の世代なのである。
若者よ!どうぞ!心からお願いする蓄積されたものを昭和16年からわずかな時間で消費しないでほしい。
この!放蕩息子が〜まったく目が見えぬ。
福岡の地までパネルを運んでいただいたのは午後5時過ぎみやざきに向かわれた方。
目に良い、ブルーベリーを育て始めようとしてる方。
古老の言うのは樹皮を煎せんじて洗眼薬にするのはメグスリの木やジャムにするカシスなどである。
目といえば一寸やそっとやでは 引き下がれない。なんとなればこれにサツマイモを加えたいからである。
エェッ!サツマイモが〜!・そ・う・な・ん・で・す・!サツマイモの葉には老化や発がんを抑制する抗酸化物質の
ポリフェノールやビタミン、ミネラルが豊富に含まれている。
実証も九州沖縄農業研究センター(熊本県西合志町)は、サツマイモの中に新たに多量のルティン
を初めて確認した故である。。
ルティンは、ポリフェノールと同じような活性酸素と戦ってくれる抗酸化物質で、
ビタミンPとも呼ぶpとは銘々が悪い!。紫外線吸収作用があって毛細血管を強化し、細菌の侵入も防ぐ。
高血圧症や動脈硬化、心臓病など生活習慣病の予防に効果があると言われてるのにである。。
がん研究協会によると、ルティンは目の網膜黄おう斑はんの主要成分の一つで、
画像の中央部分と緻密ちみつな細部を見分けるために必要なもの。ルティンを豊富に含む
野菜を中心にした食生活は、長年の間に積み重ねられていく網膜黄斑部変性などの損傷から守るという。
九州農研の研究だと、サツマイモの改良種「すいおう」の葉には百グラム当たり二十ミリグラムのルティンが含まれ、これは野菜の中で最もルティンを多く含む青汁の原料のケール
とほぼ同量、ホウレンソウの二倍。他のサツマイモも十ミリグラム以上。
「朝青龍の強さはルティンにあり」
ルティンの豊富なソバの中でも韃靼(だったん)ソバは特に多く
、産地はモンゴルや中国奥地の高所。白内障や糖尿病性網膜症など何らかの目の病気を持って
いる国内の九百万人にサツマイモやソバを薦めたい。
先ほどから戴いて10本以上の空きビンと化したのは誰? そりゃ〜そうでしょう!カラスミそれもそんじゅそこいらのモンジャなく料亭用の超珍味。あやかりたい。蚊帳つりたい・・古すぎるネタ・・・
無一文であろうと四面楚歌の状況であろうと確実なる工事は地球環境の保持から大切な問題である
宮崎県の気候は年平均気温が17度、年間降水量が2435ミリと温暖多雨で、日照時間も2103時間’全国3位)と恵まれ、さまざまな動植物の成長に適した自然条件の神の恵みに有る。
拾六町にパネルを上げ発電所たる工事を終えた。
黒田節に歌うがごとくの御仁が居られる。♪さ〜けは、のめのめ飲むならばこれぞまことの黒田節♪
そんじゅ、そこいらに居られる紳士ではない。
ジョイフルなる貧乏人のお食事どころでビールで乾杯!
この方はじめてのようである。なんでこんな安ぃっと〜
「お足」を知らない落語の君がごとくである。
それからはご自宅で酒池肉林がごとくで本位ではない。
午前二時。怪物たる、オットット!清廉潔白といわないと怒るぞよ。みごとなる酒飲みの兵もの。
只今討ち死にで静かなる事。静かなるがごとくのジョン・ウェン。でダウン!・ワン!ツゥ!スリッ!
団塊の世代は酸いも甘いも嗅ぎ分ける。
ほとんどの経験、ある意味で江戸の生活を知っている世代でもある。。
なんとなれば日本は明治期の日清日露を経て資本蓄積をして列強に方を並べた。
その遺産を食い潰して「0」からスタートしたのが団塊の世代なのである。
若者よ!どうぞ!心からお願いする蓄積されたものを昭和16年からわずかな時間で消費しないでほしい。
この!放蕩息子が〜まったく目が見えぬ。
福岡の地までパネルを運んでいただいたのは午後5時過ぎみやざきに向かわれた方。
目に良い、ブルーベリーを育て始めようとしてる方。
古老の言うのは樹皮を煎せんじて洗眼薬にするのはメグスリの木やジャムにするカシスなどである。
目といえば一寸やそっとやでは 引き下がれない。なんとなればこれにサツマイモを加えたいからである。
エェッ!サツマイモが〜!・そ・う・な・ん・で・す・!サツマイモの葉には老化や発がんを抑制する抗酸化物質の
ポリフェノールやビタミン、ミネラルが豊富に含まれている。
実証も九州沖縄農業研究センター(熊本県西合志町)は、サツマイモの中に新たに多量のルティン
を初めて確認した故である。。
ルティンは、ポリフェノールと同じような活性酸素と戦ってくれる抗酸化物質で、
ビタミンPとも呼ぶpとは銘々が悪い!。紫外線吸収作用があって毛細血管を強化し、細菌の侵入も防ぐ。
高血圧症や動脈硬化、心臓病など生活習慣病の予防に効果があると言われてるのにである。。
がん研究協会によると、ルティンは目の網膜黄おう斑はんの主要成分の一つで、
画像の中央部分と緻密ちみつな細部を見分けるために必要なもの。ルティンを豊富に含む
野菜を中心にした食生活は、長年の間に積み重ねられていく網膜黄斑部変性などの損傷から守るという。
九州農研の研究だと、サツマイモの改良種「すいおう」の葉には百グラム当たり二十ミリグラムのルティンが含まれ、これは野菜の中で最もルティンを多く含む青汁の原料のケール
とほぼ同量、ホウレンソウの二倍。他のサツマイモも十ミリグラム以上。
「朝青龍の強さはルティンにあり」
ルティンの豊富なソバの中でも韃靼(だったん)ソバは特に多く
、産地はモンゴルや中国奥地の高所。白内障や糖尿病性網膜症など何らかの目の病気を持って
いる国内の九百万人にサツマイモやソバを薦めたい。
先ほどから戴いて10本以上の空きビンと化したのは誰? そりゃ〜そうでしょう!カラスミそれもそんじゅそこいらのモンジャなく料亭用の超珍味。あやかりたい。蚊帳つりたい・・古すぎるネタ・・・
無一文であろうと四面楚歌の状況であろうと確実なる工事は地球環境の保持から大切な問題である
宮崎県の気候は年平均気温が17度、年間降水量が2435ミリと温暖多雨で、日照時間も2103時間’全国3位)と恵まれ、さまざまな動植物の成長に適した自然条件の神の恵みに有る。
12月21日の日記
2004年12月21日社長命令で「せきやん日記」は閉鎖に追い込まれました。
ずいぶんとの争闘を重ねましたが私が折れました。
本意では在りませんでした
が争ってはつい一ヶ月前の経験から暴力沙汰にもなりうる
要素を持ち合わせてもいる人なのです。
人を見て法を説け!
私は緊急避難の道を選びました。
11月1日より「きやんせ日記」で書き連ねてみました。
これでもガキ大将であったのですからなんと30年以上のサラリーマン生活で情けない!去勢されてしまっていました。
書くことを何とか続けパソ音痴を克服してやろうの決意の大儀のためです
もう少し目指してみます。
「きやんせ日記」のご愛読ありがとうございました
もとの「せきやん日記」に改名して再出発いたします。
「せきやん日記」でのご愛読を切ににお願いいたします。
goo
?http://diarynote.jp/d/36488/
?1 営業せきやんの憂鬱
? http://search.goo.ne.jp/web.jsp?TAB=&;;;;;MT=%A4%BB%A4%AD%A4%E4%A4%F3&web4.x=27&web4.y=8
yahoo
?営業せきやんの憂鬱
?http://diarynote.jp/d/36488/
?http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A4%BB%A4%AD%A4%E4%A4%F3&fr=top
ずいぶんとの争闘を重ねましたが私が折れました。
本意では在りませんでした
が争ってはつい一ヶ月前の経験から暴力沙汰にもなりうる
要素を持ち合わせてもいる人なのです。
人を見て法を説け!
私は緊急避難の道を選びました。
11月1日より「きやんせ日記」で書き連ねてみました。
これでもガキ大将であったのですからなんと30年以上のサラリーマン生活で情けない!去勢されてしまっていました。
書くことを何とか続けパソ音痴を克服してやろうの決意の大儀のためです
もう少し目指してみます。
「きやんせ日記」のご愛読ありがとうございました
もとの「せきやん日記」に改名して再出発いたします。
「せきやん日記」でのご愛読を切ににお願いいたします。
goo
?http://diarynote.jp/d/36488/
?1 営業せきやんの憂鬱
? http://search.goo.ne.jp/web.jsp?TAB=&;;;;;MT=%A4%BB%A4%AD%A4%E4%A4%F3&web4.x=27&web4.y=8
yahoo
?営業せきやんの憂鬱
?http://diarynote.jp/d/36488/
?http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A4%BB%A4%AD%A4%E4%A4%F3&fr=top
されど税、たかが税and宗教 権力者
2004年12月20日手狭な敷地ゆえ近くの駐車場用地を借りることとした。
「宗教法人はいいわな〜」
との話になった。税に関する恩典がずいぶんとある話をされた。
資産家も泣くこと地頭にはどうやら勝てぬらしい。
目白御殿を誇っていたときの権力者の城も物納で納税され
土地の広さは2/1以下になってるようである。
御殿の主は上告審に係属中の1993(平成5)年12.16日逝去。
真紀子が小石川税務署への課税異議申立人の地位を引き継ぎ、
税金闘争を継続-
1994.3 真紀子、賄賂5億円の所得税など約4億円111を納付する 【納付しない限り年利14.6%の延滞税が膨らんでいく】
既に延滞税は9億6000万円に達していた。
軽井沢の別荘を担保提供していたため半額の4億8000万円に。 税金闘争継続。
3.23日 真紀子が記者会見し、「今回の納付は延滞税が膨むのを避けるためではないし相続税対策でも無い」
父の気持ちを大切にしたいし異議申し立てを取り下げるつもりは絶対に無い」とコメント。
1994.6.30日村山内閣成立。真紀子、科学技術庁長官で入閣。
1994.7.18日角栄の死去(1993.12.16日)より7ヵ月後、真紀子ら小石側税務署に角栄の遺産を119億4000万円円と申告。
角栄の遺産を相続したのは、妻のはな、長女の真紀子、
養子の真紀子の夫直紀、角栄と愛人の間に出来た息子二人の5名。
相続の内訳は、妻のはな59億7000万円
、 真紀子・直紀夫妻が19億9000万円ずつ、
異母弟の二人は9億9000万円ずつ。
この時、国税局より、遺産相続をめぐって約78億円の申告漏れが指摘され、相続税が約65億円に膨らみ遺産総額約197億円とされた。
しかし税金全てを払うだけの預貯金は無く、35億円を現金で支払った
他の残りは東京都文京区目白台の角栄名義であった「目白御殿」の敷地5800のうち、3200を物納している
(目白御殿の一部を物納−大蔵省関東財務局が管理)
公表された資産は、目白御殿(東京都文京区)敷地約8千 越後交通株式、新潟県山林等々であった。
1994.12月小石川税務署が、真紀子の異議申し立てを棄却。
1995.1月真紀子が、東京国税不服審判所に不服審査を請求。
1995.9.13日角栄の妻はな死亡。遺産像族は、真紀子、直紀夫妻とはなと前夫との間に生まれた3名
1995.9月母はなの遺産に対する相続税53億円も懸案中。
1995.12月真紀子らの遺産申告78億円の申告があると判明
課税対象の遺産額は197億円、相続税は65億円に。30億円分を物納へ。
1996.1.11日橋本内閣成立。
1996.9月不服審判所が真紀子の不服審査請求を棄却の判決。
1999.12月真紀子、課税取り消しの行政訴訟を起こさず、
裁判闘争に終止符を打つ。裁判所に課税取り消しの行政訴訟を起こす道は残されていたが、3ヶ月の期限内に提訴せず、12月末課税が確定
東京国税局の課税通知から、実に19年9ヶ月ぶりのことだった。
2000.3月物納した土地のうち「目白御殿」の一部、1200を日本女子大学が約7億8500万円で購入。
2001年の政治家の資産公開で田中直紀氏が約1032、真紀子氏が1606を受け継いだことが判明。
通称マルサと呼ばれる国税庁の権限発議のようになっている。
質問検査権、強制調査権(査察権)が大きな柱である。
査察部と特捜部の関係は操作の結末を大きく変える。
査察部・特捜部=強制調査犯罪コース、特捜部以外=任意調査追徴決着コースが常である。
地検との協力関係で限りなくオールマイティー権を行使することが出来る。
世界史の近世において権力者の最高は独裁者ヒトラーであろう。
昨日のロイター通信の記事には記録の怖さを教えられた
ナチス・ドイツ総統のヒトラーが税務当局の徴税から虚偽の理由などを申し立て必死に逃れようとしていた
1033年に政権に就く前、税金逃れを重ねた
ヒトラーの8年間での滞納額は当時の通貨で約40万5000ライヒス・マルク。現在の価値では、約8億4000万円相当になるとしている。
ヒトラーは「わが闘争」の著書、で約123万ライヒス・マルクの収入を得て、60万同マルクの税金を支払う義務を果たさなかった。
実は神田の古書店で求めたこの本の初期本の邦訳を所有していたが何処にあるのかわからぬ。もう一度読み返してみたいものである。
ヒトラーは首相就任後に支払いを全額免除されたという
総統就任前の8年間自家用車を「企業の車」と主張したりするなど税金逃れの手を使っていたという。
また、総統として4万4000マルクの給料を稼いでいたが、未亡人の慈善団体に寄付したとも申告。実際は、していなかったという。
総統就任後、ミュンヘンの税務当局の署長がヒトラーに書簡を送り、それまでの滞納額を帳消しにすることを申し出た。
ヒトラーの側近が返信で、総統が提案を受け取ると連絡したという。
この署長は1カ月後に、ドイツの税務本庁のトップに昇進、給料は41%増となった
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」のにぎにぎよりも、まだましは
役人の 子はあとだしを よく覚え
赤ん坊が、結んで開いてをしている。
「おお上手だね〜」
「そりゃ、そうさ。役人の子だもの。」
「もう、練習かい。年季が入ってるはずだねえ、」と、
人間の性で万国共通のこと。中国で発表しても、10億の民が一斉にうなずく?
似たりよったりは宗教法人のこの優遇性である。
これではご来光のご利益がどうなるのやら。
明治初頭以来の国有地である富士山山頂部385万平方メートルの土地が浅間大社に国から無償で譲渡された。
徳川家康の寄進を証する古文書があり、30年前の最高裁判決でも
「宗教活動に必要」と認定されていた。
歴史問題の解決には時間と大変な骨折りが必要なんだ。
他方で「真白き富士も私有地か」の意外感もあろう。
富士山と各人の信仰、宗教活動と法的関係と思考を重ねねばならぬためか。
何が宗教法人か。守銭奴め!
家康までさかのぼる「待つ」努力には驚嘆!すごき宗教!
または宗教に「持つ」こそ紛争の根源と教えられるからか。
日韓首脳会談でも北朝鮮による日本人拉致・人質と核開発・所有の両問題ともに「持つ」に前進は見えぬ。
体制の生死をかけた「持つ」固執の非情な戦略を前になすすべのない日本
権力者・宗教・税のキーワード
されば宗教されど宗教
されど税、たかが税
新年度予算が開示された
国を食い荒らすごくゾウムシほど怖いものはない
「宗教法人はいいわな〜」
との話になった。税に関する恩典がずいぶんとある話をされた。
資産家も泣くこと地頭にはどうやら勝てぬらしい。
目白御殿を誇っていたときの権力者の城も物納で納税され
土地の広さは2/1以下になってるようである。
御殿の主は上告審に係属中の1993(平成5)年12.16日逝去。
真紀子が小石川税務署への課税異議申立人の地位を引き継ぎ、
税金闘争を継続-
1994.3 真紀子、賄賂5億円の所得税など約4億円111を納付する 【納付しない限り年利14.6%の延滞税が膨らんでいく】
既に延滞税は9億6000万円に達していた。
軽井沢の別荘を担保提供していたため半額の4億8000万円に。 税金闘争継続。
3.23日 真紀子が記者会見し、「今回の納付は延滞税が膨むのを避けるためではないし相続税対策でも無い」
父の気持ちを大切にしたいし異議申し立てを取り下げるつもりは絶対に無い」とコメント。
1994.6.30日村山内閣成立。真紀子、科学技術庁長官で入閣。
1994.7.18日角栄の死去(1993.12.16日)より7ヵ月後、真紀子ら小石側税務署に角栄の遺産を119億4000万円円と申告。
角栄の遺産を相続したのは、妻のはな、長女の真紀子、
養子の真紀子の夫直紀、角栄と愛人の間に出来た息子二人の5名。
相続の内訳は、妻のはな59億7000万円
、 真紀子・直紀夫妻が19億9000万円ずつ、
異母弟の二人は9億9000万円ずつ。
この時、国税局より、遺産相続をめぐって約78億円の申告漏れが指摘され、相続税が約65億円に膨らみ遺産総額約197億円とされた。
しかし税金全てを払うだけの預貯金は無く、35億円を現金で支払った
他の残りは東京都文京区目白台の角栄名義であった「目白御殿」の敷地5800のうち、3200を物納している
(目白御殿の一部を物納−大蔵省関東財務局が管理)
公表された資産は、目白御殿(東京都文京区)敷地約8千 越後交通株式、新潟県山林等々であった。
1994.12月小石川税務署が、真紀子の異議申し立てを棄却。
1995.1月真紀子が、東京国税不服審判所に不服審査を請求。
1995.9.13日角栄の妻はな死亡。遺産像族は、真紀子、直紀夫妻とはなと前夫との間に生まれた3名
1995.9月母はなの遺産に対する相続税53億円も懸案中。
1995.12月真紀子らの遺産申告78億円の申告があると判明
課税対象の遺産額は197億円、相続税は65億円に。30億円分を物納へ。
1996.1.11日橋本内閣成立。
1996.9月不服審判所が真紀子の不服審査請求を棄却の判決。
1999.12月真紀子、課税取り消しの行政訴訟を起こさず、
裁判闘争に終止符を打つ。裁判所に課税取り消しの行政訴訟を起こす道は残されていたが、3ヶ月の期限内に提訴せず、12月末課税が確定
東京国税局の課税通知から、実に19年9ヶ月ぶりのことだった。
2000.3月物納した土地のうち「目白御殿」の一部、1200を日本女子大学が約7億8500万円で購入。
2001年の政治家の資産公開で田中直紀氏が約1032、真紀子氏が1606を受け継いだことが判明。
通称マルサと呼ばれる国税庁の権限発議のようになっている。
質問検査権、強制調査権(査察権)が大きな柱である。
査察部と特捜部の関係は操作の結末を大きく変える。
査察部・特捜部=強制調査犯罪コース、特捜部以外=任意調査追徴決着コースが常である。
地検との協力関係で限りなくオールマイティー権を行使することが出来る。
世界史の近世において権力者の最高は独裁者ヒトラーであろう。
昨日のロイター通信の記事には記録の怖さを教えられた
ナチス・ドイツ総統のヒトラーが税務当局の徴税から虚偽の理由などを申し立て必死に逃れようとしていた
1033年に政権に就く前、税金逃れを重ねた
ヒトラーの8年間での滞納額は当時の通貨で約40万5000ライヒス・マルク。現在の価値では、約8億4000万円相当になるとしている。
ヒトラーは「わが闘争」の著書、で約123万ライヒス・マルクの収入を得て、60万同マルクの税金を支払う義務を果たさなかった。
実は神田の古書店で求めたこの本の初期本の邦訳を所有していたが何処にあるのかわからぬ。もう一度読み返してみたいものである。
ヒトラーは首相就任後に支払いを全額免除されたという
総統就任前の8年間自家用車を「企業の車」と主張したりするなど税金逃れの手を使っていたという。
また、総統として4万4000マルクの給料を稼いでいたが、未亡人の慈善団体に寄付したとも申告。実際は、していなかったという。
総統就任後、ミュンヘンの税務当局の署長がヒトラーに書簡を送り、それまでの滞納額を帳消しにすることを申し出た。
ヒトラーの側近が返信で、総統が提案を受け取ると連絡したという。
この署長は1カ月後に、ドイツの税務本庁のトップに昇進、給料は41%増となった
「役人の子はにぎにぎをよく覚え」のにぎにぎよりも、まだましは
役人の 子はあとだしを よく覚え
赤ん坊が、結んで開いてをしている。
「おお上手だね〜」
「そりゃ、そうさ。役人の子だもの。」
「もう、練習かい。年季が入ってるはずだねえ、」と、
人間の性で万国共通のこと。中国で発表しても、10億の民が一斉にうなずく?
似たりよったりは宗教法人のこの優遇性である。
これではご来光のご利益がどうなるのやら。
明治初頭以来の国有地である富士山山頂部385万平方メートルの土地が浅間大社に国から無償で譲渡された。
徳川家康の寄進を証する古文書があり、30年前の最高裁判決でも
「宗教活動に必要」と認定されていた。
歴史問題の解決には時間と大変な骨折りが必要なんだ。
他方で「真白き富士も私有地か」の意外感もあろう。
富士山と各人の信仰、宗教活動と法的関係と思考を重ねねばならぬためか。
何が宗教法人か。守銭奴め!
家康までさかのぼる「待つ」努力には驚嘆!すごき宗教!
または宗教に「持つ」こそ紛争の根源と教えられるからか。
日韓首脳会談でも北朝鮮による日本人拉致・人質と核開発・所有の両問題ともに「持つ」に前進は見えぬ。
体制の生死をかけた「持つ」固執の非情な戦略を前になすすべのない日本
権力者・宗教・税のキーワード
されば宗教されど宗教
されど税、たかが税
新年度予算が開示された
国を食い荒らすごくゾウムシほど怖いものはない
隣の国・韓国
2004年12月19日「譲らず・媚びず」は国の指導者としては要諦のひとつであろう
裏返せば優劣でもあり、評価が定まらぬことでもあろう。
政治家の仕事とは歴史しか判定しょうがないので結果責任といわれるゆえんである。
小泉首相は歯に着せぬ物言いが世論の支持を受けたが最近はトーン・ダウンして比例して支持率低下を招いている。
いまや対立候補一人といないまでの長期政権となってきている。
果たして磐石であるのか。
来年四月の福岡補選の山崎拓の選挙が頭が痛い。アキレス腱になるやも知れぬ。
民主党は来年の衆議院選補欠選挙をにらみ福岡で大会をを開いてるほどである。
台湾の李登輝氏(81)に、ビザ(入国査証)の発給を「断る理由がない」と小泉首相は決めた。
李さんは京都大学農学部出身の大の親日家である。
昨年は『武士道解題』(小学館)という本も出版し日本を第二の故郷ともみている。
河野外相のときビザ発給の反対にあい、心臓病の診察を日本の医師に求めたが実現できそうもなかった。
今回も中国政府は「台湾分裂活動を容認、支持したことであり、中国への挑戦である」と強硬なる意見を求めている。
両国の首脳はまったく会談ができないでいる。
日韓首脳会談は17日18日鹿児島県指宿市で開催された。
談笑する小泉首相と盧武鉉(ノムヒョン)・韓国大統領 を見ると安心してくる。
すっかり気に入った様子で、盧武鉉大統領が
「こんないい所と知っていたら、もう1泊したのに。今度来る時は何の計画もなくゆっくりしたい」と話す
両首脳ともにノーネクタイのラフなスタイルで、リラックスした表情。
早朝の雨が上がり、晴れ間ものぞくまで回復し、両首脳は「ついている」を連発した。
「責任ある指導者なら、終点の解決策を念頭においてアプローチするので、国民と違う判断もありうる。戦略的な判断が必要な局面こそ指導者を信じてほしい」。
盧大統領は共同会見で、北への経済制裁に慎重な小泉首相を擁護し、日本国民に冷静な対応を呼びかけた。
日韓両首脳とも北朝鮮の対応次第では制裁の可能性を示唆し、協調ムードを演出し続けたものの、制裁発動を望まない盧大統領の本音がにじみでた場面だ。
、6カ国協議の枠組みの重要性は確認したものの、協議再開の打開策は見出せていない。
北朝鮮は協議参加拒否の理由を韓国日本にあるとしている。
日本には「政治的意図で」遺骨問題を扱っているとの不満を述べており、日米韓3カ国の足並みを乱すことを狙っている。
盧大統領は会見で「合意も重要だが、ざっくばらんな議論ができたのが成果だ」と強調した
では、北朝鮮はどうしているのか
北朝鮮は「テポドン2号はいつでも試射行える」と 米国務省の
ラドメーカー次官補(軍備管理担当)は、北朝鮮の多段式長距離弾道ミサイル「テポドン2号」(射程約6000キロ)に関し発言した。
、
「3段目を装備すれば、数百キロの弾頭を搭載しても射程を最長1万5000キロまで延長可能だとも述べた。
弾道ミサイル「ノドン」(射程約1300キロ)の輸出は
「わずか2〜3年で(輸入した)数カ国のミサイル軍事力を向上させたとも述べた。
15日に行われた地上配備型ミサイル防衛(MD)システムの迎撃実験が失敗した問題について、
「日本が導入する型とはタイプが違う」
と述べ、日本のMD導入に影響はないとの見解を示した。
ブッシュ政権は地上配備型の今年中の稼働を目指しているが、実験失敗で遅れを指摘する声もある。
12月新聞社の世論調査で、中国などが強く反発する小泉首相の靖国神社参拝継続に賛成が46%、反対41%。小泉人気37%も上回る。
「冬のソナタ」が火をつけた日本の韓流ブームは「ヨン様」騒動をはじめ詳しく韓国内でも報道されている。
そのお返しか、以前は警戒的だった日本文化への論調も好意的になってきた。
経済は親密だが政治は疎遠な
日中関係の「政冷経熱」日韓は「政冷文熱」。
その韓国で、気掛かりな「経冷」現象が起きている。
アジア通貨危機から奇跡的に立ち直っていた経済の冷え込みだ。
消費や投資など内需にとんと元気がない。予測では来年度の成長率は4%か、それ以下になるという。
「追いつけ追い越せ」の国にあるまじき低成長で、盧武鉉(政権の経済無策が批判されている。
日本の景気指標にも変調が見えるが、経冷で韓流の「追っかけ」は有り難くない。
ソウルで開かれた日本映画祭の会場。
上映されたのは、黒沢明や小津安二郎、北野武、宮崎駿ら古今の巨匠による“定番”作品ではなく、
加山雄三の「兄貴の恋人」や原田知世の「私をスキーに連れてって」、ロマンポルノの「桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール」などを含む46本。
日本ですら忘れられた作品が並ぶ、マニアックな選定。
成功するのか半信半疑だったが約1万6000人を動員し、平均8割近くの座席が埋まっり、映画館は大盛況。
格調高い名作傑作を紹介するばかりが文化交流ではなく、普段着の大衆娯楽映画にこそ大きな可能性がある。
映画祭は来年の日韓国交正常化40周年を前に、日本の文化庁が企画した。
選ばれたのは、両国に文化交流がなかった1965〜98年に作られた作品。
映画評論家でもある寺脇研・同庁文化部長によれば「時代を映した作品」
人気の一つは、通常の8分の1程度の1000ウオン(約100円)という破格に安い入場料。
この時代のアイドル映画のくどいほどメリハリの利いた筋立てや演出が、今の韓国映画と一脈通じることも要因だろう。。
「日本映画は洗練されて芸術的なイメージだったが、今回上映された作品には、生き生きとした生活がある。他の映画祭では見られない作品ばかりだし、日本がより親しみやすくなった」。
「桃尻娘」がお気に入りのイ・チュンジク韓国映画振興委員長の言葉。
韓国は戦後、日本映画の上映を禁じてきたが、金大中前大統領時代の98年から段階的に門戸が開かれ03年に全面開放された。
、岩井俊二監督の「Love Letter」や清水崇監督の「呪怨(じゅおん)」など数本がヒットした。
韓国映画は「シュリ」が当たりテレビドラマ「冬のソナタ」に人気が出て、韓流ブームに火が付いた。
そこでは、言葉は違えど似たように恋やケンカをし、泣いたり笑ったりのドタバタを繰り広げる人間臭い姿があった。
そして韓国人も室内では靴を脱ぐとか、食卓には必ずキムチがあるとかいった、画面の端に映る何気ない日常に発見があり、新鮮な驚きを覚えた。
南北分断など、政治的問題も娯楽作品をきっかけに理解した人が多かったのではなかろうか。
数字を見れば、日本での韓国映画の占有率は1%にも満たない。
作品に声高な主張やテーマはなくとも高度経済成長期の工員のつつましい希望や悩み、バブル時代の若者の軽薄で能天気な生活心情。
行儀の良い姿ばかりではないが、等身大の日本人の喜怒哀楽を生き生きと伝えていた。
文化交流と言えども、肩の凝らない娯楽作品にこそ、文化や生活習慣は色濃く映し出される。
それが異文化への興味の糸口となり、理解を深めるきっかけとなる。すべてのしがらみが氷解できずとも、親近感は相互理解と対等なつきあいへの第一歩。
政治でも経済でも、誤解や軋轢を和らげる一助になり、アジアが世界に飛躍するものになろう。
ロケットは合っても食べ物のない北
NBAサンズの初めての小さき巨人の日本人田臥が解雇された
チャンスはいま少しある、
ここは我慢だ。
裏返せば優劣でもあり、評価が定まらぬことでもあろう。
政治家の仕事とは歴史しか判定しょうがないので結果責任といわれるゆえんである。
小泉首相は歯に着せぬ物言いが世論の支持を受けたが最近はトーン・ダウンして比例して支持率低下を招いている。
いまや対立候補一人といないまでの長期政権となってきている。
果たして磐石であるのか。
来年四月の福岡補選の山崎拓の選挙が頭が痛い。アキレス腱になるやも知れぬ。
民主党は来年の衆議院選補欠選挙をにらみ福岡で大会をを開いてるほどである。
台湾の李登輝氏(81)に、ビザ(入国査証)の発給を「断る理由がない」と小泉首相は決めた。
李さんは京都大学農学部出身の大の親日家である。
昨年は『武士道解題』(小学館)という本も出版し日本を第二の故郷ともみている。
河野外相のときビザ発給の反対にあい、心臓病の診察を日本の医師に求めたが実現できそうもなかった。
今回も中国政府は「台湾分裂活動を容認、支持したことであり、中国への挑戦である」と強硬なる意見を求めている。
両国の首脳はまったく会談ができないでいる。
日韓首脳会談は17日18日鹿児島県指宿市で開催された。
談笑する小泉首相と盧武鉉(ノムヒョン)・韓国大統領 を見ると安心してくる。
すっかり気に入った様子で、盧武鉉大統領が
「こんないい所と知っていたら、もう1泊したのに。今度来る時は何の計画もなくゆっくりしたい」と話す
両首脳ともにノーネクタイのラフなスタイルで、リラックスした表情。
早朝の雨が上がり、晴れ間ものぞくまで回復し、両首脳は「ついている」を連発した。
「責任ある指導者なら、終点の解決策を念頭においてアプローチするので、国民と違う判断もありうる。戦略的な判断が必要な局面こそ指導者を信じてほしい」。
盧大統領は共同会見で、北への経済制裁に慎重な小泉首相を擁護し、日本国民に冷静な対応を呼びかけた。
日韓両首脳とも北朝鮮の対応次第では制裁の可能性を示唆し、協調ムードを演出し続けたものの、制裁発動を望まない盧大統領の本音がにじみでた場面だ。
、6カ国協議の枠組みの重要性は確認したものの、協議再開の打開策は見出せていない。
北朝鮮は協議参加拒否の理由を韓国日本にあるとしている。
日本には「政治的意図で」遺骨問題を扱っているとの不満を述べており、日米韓3カ国の足並みを乱すことを狙っている。
盧大統領は会見で「合意も重要だが、ざっくばらんな議論ができたのが成果だ」と強調した
では、北朝鮮はどうしているのか
北朝鮮は「テポドン2号はいつでも試射行える」と 米国務省の
ラドメーカー次官補(軍備管理担当)は、北朝鮮の多段式長距離弾道ミサイル「テポドン2号」(射程約6000キロ)に関し発言した。
、
「3段目を装備すれば、数百キロの弾頭を搭載しても射程を最長1万5000キロまで延長可能だとも述べた。
弾道ミサイル「ノドン」(射程約1300キロ)の輸出は
「わずか2〜3年で(輸入した)数カ国のミサイル軍事力を向上させたとも述べた。
15日に行われた地上配備型ミサイル防衛(MD)システムの迎撃実験が失敗した問題について、
「日本が導入する型とはタイプが違う」
と述べ、日本のMD導入に影響はないとの見解を示した。
ブッシュ政権は地上配備型の今年中の稼働を目指しているが、実験失敗で遅れを指摘する声もある。
12月新聞社の世論調査で、中国などが強く反発する小泉首相の靖国神社参拝継続に賛成が46%、反対41%。小泉人気37%も上回る。
「冬のソナタ」が火をつけた日本の韓流ブームは「ヨン様」騒動をはじめ詳しく韓国内でも報道されている。
そのお返しか、以前は警戒的だった日本文化への論調も好意的になってきた。
経済は親密だが政治は疎遠な
日中関係の「政冷経熱」日韓は「政冷文熱」。
その韓国で、気掛かりな「経冷」現象が起きている。
アジア通貨危機から奇跡的に立ち直っていた経済の冷え込みだ。
消費や投資など内需にとんと元気がない。予測では来年度の成長率は4%か、それ以下になるという。
「追いつけ追い越せ」の国にあるまじき低成長で、盧武鉉(政権の経済無策が批判されている。
日本の景気指標にも変調が見えるが、経冷で韓流の「追っかけ」は有り難くない。
ソウルで開かれた日本映画祭の会場。
上映されたのは、黒沢明や小津安二郎、北野武、宮崎駿ら古今の巨匠による“定番”作品ではなく、
加山雄三の「兄貴の恋人」や原田知世の「私をスキーに連れてって」、ロマンポルノの「桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール」などを含む46本。
日本ですら忘れられた作品が並ぶ、マニアックな選定。
成功するのか半信半疑だったが約1万6000人を動員し、平均8割近くの座席が埋まっり、映画館は大盛況。
格調高い名作傑作を紹介するばかりが文化交流ではなく、普段着の大衆娯楽映画にこそ大きな可能性がある。
映画祭は来年の日韓国交正常化40周年を前に、日本の文化庁が企画した。
選ばれたのは、両国に文化交流がなかった1965〜98年に作られた作品。
映画評論家でもある寺脇研・同庁文化部長によれば「時代を映した作品」
人気の一つは、通常の8分の1程度の1000ウオン(約100円)という破格に安い入場料。
この時代のアイドル映画のくどいほどメリハリの利いた筋立てや演出が、今の韓国映画と一脈通じることも要因だろう。。
「日本映画は洗練されて芸術的なイメージだったが、今回上映された作品には、生き生きとした生活がある。他の映画祭では見られない作品ばかりだし、日本がより親しみやすくなった」。
「桃尻娘」がお気に入りのイ・チュンジク韓国映画振興委員長の言葉。
韓国は戦後、日本映画の上映を禁じてきたが、金大中前大統領時代の98年から段階的に門戸が開かれ03年に全面開放された。
、岩井俊二監督の「Love Letter」や清水崇監督の「呪怨(じゅおん)」など数本がヒットした。
韓国映画は「シュリ」が当たりテレビドラマ「冬のソナタ」に人気が出て、韓流ブームに火が付いた。
そこでは、言葉は違えど似たように恋やケンカをし、泣いたり笑ったりのドタバタを繰り広げる人間臭い姿があった。
そして韓国人も室内では靴を脱ぐとか、食卓には必ずキムチがあるとかいった、画面の端に映る何気ない日常に発見があり、新鮮な驚きを覚えた。
南北分断など、政治的問題も娯楽作品をきっかけに理解した人が多かったのではなかろうか。
数字を見れば、日本での韓国映画の占有率は1%にも満たない。
作品に声高な主張やテーマはなくとも高度経済成長期の工員のつつましい希望や悩み、バブル時代の若者の軽薄で能天気な生活心情。
行儀の良い姿ばかりではないが、等身大の日本人の喜怒哀楽を生き生きと伝えていた。
文化交流と言えども、肩の凝らない娯楽作品にこそ、文化や生活習慣は色濃く映し出される。
それが異文化への興味の糸口となり、理解を深めるきっかけとなる。すべてのしがらみが氷解できずとも、親近感は相互理解と対等なつきあいへの第一歩。
政治でも経済でも、誤解や軋轢を和らげる一助になり、アジアが世界に飛躍するものになろう。
ロケットは合っても食べ物のない北
NBAサンズの初めての小さき巨人の日本人田臥が解雇された
チャンスはいま少しある、
ここは我慢だ。
菊と葵
2004年12月18日明治維新は世界に稀なる平和裏に政権が移動した当該者たる最後の
将軍慶喜の先見性が国の危機を救ったといえよう。
決断を迫る側の西郷を中心とした指導層の英断があったゆえ最小の戦いで済んだ
もちろん戊辰・会津悲惨な状況はあったが対極からは大異を捨て小異についた
人間の大きさはかかる事案が大きいほど大切な要素である。
清濁併せ呑む度量天真爛漫な明るさが人を作りそれが国を作る。
高松宮妃の報道の日は上野のお山の西郷さんの像が建立された日であった。
5年をかけ友人の募金で成り立ったそうな。
確かに末節を汚したゆえに国家資金での建立は無理であったんであろう。
薩長同盟の二人。長州の井上馨は西南戦争の最中に心を痛め逝った
国家の行く末を思ってである。
「西郷 もうそれぐらいで、よかろう」
その逸話には万感迫るものがある。
高松宮妃喜久子さまが逝去されたとの報道であった。
15代将軍慶喜の孫にあたられる方で命名にも慶喜の1字がとられた
最後の将軍の膝の上での写真は微笑ましくも、歴史の重さで異様に眺めた。
1911(明治四十四)年十二月、江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の家を継いだ故徳川慶久(1884年-1922年)の二女として生まれた。
母方は高松宮家から改称した有栖川宮家最後の威仁親王の第二王女・実枝子(1891年-1933年)。
1930年二月、大正天皇の第三皇子で海軍軍人だった高松宮宣仁親王と結婚した。
公爵 徳川慶光(1913年-1993年)の同母姉(文筆家・榊原喜佐子(1921年-)は異母妹)印は撫子
彼女達の母・実枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。
そのため、有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、威仁親王の外孫・喜久子が早くから擬されていた。
昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問した。
高松宮とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、ついに子に恵まれず、1987年(昭和62年)2月3日に高松宮が逝去。
高松宮家は後継となる子孫がいないので、これで系統が途絶えることとなっる。
母を癌で亡くしたのを機に癌撲滅運動に関わった。
「高松宮妃癌研究基金」の設立に関与して名誉総裁と
なったことや、日仏会館の総裁として日仏交流に尽くした。
著書には『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年)がある。
昭和天皇の弟故高松宮さまとの1930年の結婚は公武合体と話題を呼んだ。
天真らんまん、繊細にして豪放で、「さすがは大政奉還した将軍の孫」と評されるエピソードをいくつも残した
終戦直後、戦災孤児を宮邸に招いて一緒に野球をした
昭和天皇の訪欧実現のため吉田茂に直談判で働きかけたそうだ。
宮内庁の反対を押し切って、高松宮さまの日記を出版し
一昨年は「女性天皇は不自然でない」と文春誌に発表
変装して乗り合い観光バスで東京見物を楽しんだ、
ゴルフに向かうとき自身で車を運転、スピード違反で白バイ警官に捕まった、と新聞を賑わした記憶がある。
テレビドラマ「徳川慶喜」の撮影現場を訪れた時は
「これで景気も良くなるといいですね」といった。
おい、めいやそのお子さまたちをかわいがった。
桂宮さまが独身のまま異例の宮家独立を果たした際の陰の立役者。
紀宮さまのご結婚問題にも、心を砕いてきた。
どうも婚約発表に水をさしたようになった。
高松宮ご夫妻の結婚式も、実父を亡くした当時の皇后の喪明けを待ってのことだった
愛情表現の最後のいたずらなんであろう。
本県には1872(昭和四十七)年十月、宮崎市であった第十八回全国里親大会出席のためご来県。
1979(同五十四)年十月の宮崎国体では、故高松宮宣仁親王と本県に二日間滞在し、自転車競技などをご観戦。
高松宮さまはゴルフ好きでも知られ、ご夫妻はプライベートで再三宮崎のゴルフ場を訪れ、プレーを楽しまれたとパブリックの友人が言ってた。
まだ明治の歴史がほんの少し残っていた。
少しぐらいのゆとりがなくっちゃ人間社会ではない。
がんじがらめの社会では世界に冠たる国ではない。
いまにタバコはすべてなくなろう
いいじゃないか。自己責任で。
菊と葵がイワンとしてるもの
公でもあり私でもある。
公継承者は三笠宮家、常陸宮家、高円宮家、秋篠宮家と4つ、
どの宮家も女子しか残すことができていない。
今上天皇の弟の常陸宮家のところは子供がなく、、
昭和天皇の弟の秩父宮家および高松宮家にも子供がない。
三笠宮彬子(あきこ)女王殿下 21歳
三笠宮瑶子(ようこ)女王殿下 19歳
高円宮承子(やつぐこ)女王殿下 17歳
高円宮典子(のりこ)女王殿下 14歳
高円宮絢子(あやこ)女王殿下 12歳
秋篠宮眞子(まこ)内親王殿下 11歳
秋篠宮佳子(かこ)内親王殿下 8歳
敬宮愛子(あいこ)内親王殿下 1歳
『女帝ノ夫ハ皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ』 における「皇統ニ近キ者」とは、元各宮家の皇族で臣籍降下した者のである。
皇后には天皇家に血が近い高級貴族がなることが多かったが、
実際に家系図を見ると、現天皇家につながる系統の生母は側室が多く、中級以下の貴族の娘が多い
また貴族は庶民出身の妾をもち子供をつくる。
例えば、明治天皇の曾祖父でもある光格天皇は、
閑院宮家出身(閑院宮典仁親王の子祐宮)で、直系が絶えた本家に代わって、宮家から天皇家を継いだ。
しかし、その母である蓮華院・橘岩代子は、伯キの国(鳥取県)
倉吉出身の町医者、岩室法橋の息女であり、純粋の庶民出身。
明治天皇の祖母(母方)も、松浦藩の家老の娘
、
大正天皇の生母も中級貴族の娘で、庶民の血が入ってる。
昭和天皇の祖母(母方)の野間幾子も庶民出身。
皇太后の母は薩摩藩主と庶民の妾の子。
政権返す慶喜イヤダロナ=1867
案外喜んで返したのかもしれない。
菊と葵の物語はそん所そこらいのお話ではない。
歴史の重みと国の運営の頂点に立つものの苦渋に満ちている。
高松宮日記〈第1巻〉 高松宮日記高松宮 宣仁 (著)¥3,568
徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき最後の将軍の横顔 徳川慶朝 著 集英社 97/10 \1500
菊と葵のものがたり 高松宮喜久子 著 中央公論社 98/11 \1600
将軍慶喜の先見性が国の危機を救ったといえよう。
決断を迫る側の西郷を中心とした指導層の英断があったゆえ最小の戦いで済んだ
もちろん戊辰・会津悲惨な状況はあったが対極からは大異を捨て小異についた
人間の大きさはかかる事案が大きいほど大切な要素である。
清濁併せ呑む度量天真爛漫な明るさが人を作りそれが国を作る。
高松宮妃の報道の日は上野のお山の西郷さんの像が建立された日であった。
5年をかけ友人の募金で成り立ったそうな。
確かに末節を汚したゆえに国家資金での建立は無理であったんであろう。
薩長同盟の二人。長州の井上馨は西南戦争の最中に心を痛め逝った
国家の行く末を思ってである。
「西郷 もうそれぐらいで、よかろう」
その逸話には万感迫るものがある。
高松宮妃喜久子さまが逝去されたとの報道であった。
15代将軍慶喜の孫にあたられる方で命名にも慶喜の1字がとられた
最後の将軍の膝の上での写真は微笑ましくも、歴史の重さで異様に眺めた。
1911(明治四十四)年十二月、江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の家を継いだ故徳川慶久(1884年-1922年)の二女として生まれた。
母方は高松宮家から改称した有栖川宮家最後の威仁親王の第二王女・実枝子(1891年-1933年)。
1930年二月、大正天皇の第三皇子で海軍軍人だった高松宮宣仁親王と結婚した。
公爵 徳川慶光(1913年-1993年)の同母姉(文筆家・榊原喜佐子(1921年-)は異母妹)印は撫子
彼女達の母・実枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。
そのため、有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、威仁親王の外孫・喜久子が早くから擬されていた。
昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問した。
高松宮とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、ついに子に恵まれず、1987年(昭和62年)2月3日に高松宮が逝去。
高松宮家は後継となる子孫がいないので、これで系統が途絶えることとなっる。
母を癌で亡くしたのを機に癌撲滅運動に関わった。
「高松宮妃癌研究基金」の設立に関与して名誉総裁と
なったことや、日仏会館の総裁として日仏交流に尽くした。
著書には『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年)がある。
昭和天皇の弟故高松宮さまとの1930年の結婚は公武合体と話題を呼んだ。
天真らんまん、繊細にして豪放で、「さすがは大政奉還した将軍の孫」と評されるエピソードをいくつも残した
終戦直後、戦災孤児を宮邸に招いて一緒に野球をした
昭和天皇の訪欧実現のため吉田茂に直談判で働きかけたそうだ。
宮内庁の反対を押し切って、高松宮さまの日記を出版し
一昨年は「女性天皇は不自然でない」と文春誌に発表
変装して乗り合い観光バスで東京見物を楽しんだ、
ゴルフに向かうとき自身で車を運転、スピード違反で白バイ警官に捕まった、と新聞を賑わした記憶がある。
テレビドラマ「徳川慶喜」の撮影現場を訪れた時は
「これで景気も良くなるといいですね」といった。
おい、めいやそのお子さまたちをかわいがった。
桂宮さまが独身のまま異例の宮家独立を果たした際の陰の立役者。
紀宮さまのご結婚問題にも、心を砕いてきた。
どうも婚約発表に水をさしたようになった。
高松宮ご夫妻の結婚式も、実父を亡くした当時の皇后の喪明けを待ってのことだった
愛情表現の最後のいたずらなんであろう。
本県には1872(昭和四十七)年十月、宮崎市であった第十八回全国里親大会出席のためご来県。
1979(同五十四)年十月の宮崎国体では、故高松宮宣仁親王と本県に二日間滞在し、自転車競技などをご観戦。
高松宮さまはゴルフ好きでも知られ、ご夫妻はプライベートで再三宮崎のゴルフ場を訪れ、プレーを楽しまれたとパブリックの友人が言ってた。
まだ明治の歴史がほんの少し残っていた。
少しぐらいのゆとりがなくっちゃ人間社会ではない。
がんじがらめの社会では世界に冠たる国ではない。
いまにタバコはすべてなくなろう
いいじゃないか。自己責任で。
菊と葵がイワンとしてるもの
公でもあり私でもある。
公継承者は三笠宮家、常陸宮家、高円宮家、秋篠宮家と4つ、
どの宮家も女子しか残すことができていない。
今上天皇の弟の常陸宮家のところは子供がなく、、
昭和天皇の弟の秩父宮家および高松宮家にも子供がない。
三笠宮彬子(あきこ)女王殿下 21歳
三笠宮瑶子(ようこ)女王殿下 19歳
高円宮承子(やつぐこ)女王殿下 17歳
高円宮典子(のりこ)女王殿下 14歳
高円宮絢子(あやこ)女王殿下 12歳
秋篠宮眞子(まこ)内親王殿下 11歳
秋篠宮佳子(かこ)内親王殿下 8歳
敬宮愛子(あいこ)内親王殿下 1歳
『女帝ノ夫ハ皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ』 における「皇統ニ近キ者」とは、元各宮家の皇族で臣籍降下した者のである。
皇后には天皇家に血が近い高級貴族がなることが多かったが、
実際に家系図を見ると、現天皇家につながる系統の生母は側室が多く、中級以下の貴族の娘が多い
また貴族は庶民出身の妾をもち子供をつくる。
例えば、明治天皇の曾祖父でもある光格天皇は、
閑院宮家出身(閑院宮典仁親王の子祐宮)で、直系が絶えた本家に代わって、宮家から天皇家を継いだ。
しかし、その母である蓮華院・橘岩代子は、伯キの国(鳥取県)
倉吉出身の町医者、岩室法橋の息女であり、純粋の庶民出身。
明治天皇の祖母(母方)も、松浦藩の家老の娘
、
大正天皇の生母も中級貴族の娘で、庶民の血が入ってる。
昭和天皇の祖母(母方)の野間幾子も庶民出身。
皇太后の母は薩摩藩主と庶民の妾の子。
政権返す慶喜イヤダロナ=1867
案外喜んで返したのかもしれない。
菊と葵の物語はそん所そこらいのお話ではない。
歴史の重みと国の運営の頂点に立つものの苦渋に満ちている。
高松宮日記〈第1巻〉 高松宮日記高松宮 宣仁 (著)¥3,568
徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき最後の将軍の横顔 徳川慶朝 著 集英社 97/10 \1500
菊と葵のものがたり 高松宮喜久子 著 中央公論社 98/11 \1600
残り火
2004年12月17日 年も押し迫り1年を振り返る新聞記事も現れ出した、
流行語大賞は「人生いろいろ」「たかが選手」をものともせず「チョ!気持ちい」だったとか、
プロ野球の大変革につながった言葉がベスト10にも入ってないのは怪しく訝しい
所詮マスコミはマスコミ界の一員でもある読売も含め巨大な支配者がいる。
支配者も生老病死の定めには逆らえず、いずれ外棺蓋で釘を打たれ焼却されて同じである。
転生輪廻が在ろうとも今年の一年の訃報録に収まろう。
水上勉は1919年3月8日生まれの福井の人
今年2004年9月8日、肺炎のため死去した85歳。
深く沈んだ文章には瞑想が語る語り口を感じた
他方「凍てる庭」での赤裸々な法廷における離婚裁判は
ノン・フイクション張りの私小説風で読みやすかった。
それもそうであろう。実は実録であった。
京王線下高井戸の隣の明大前ここいらがどうもこの人には鬼門であった、
幼きころ禅寺で働くが出帆
貧乏作家のため二度の離婚でそれぞれ子供を残されて困り果ててしまう。お金がないと女は逃げるわ〜一度の人生を無駄にはしないも〜ん
水上勉略歴
昭和15年 1940 21才 上京
昭和16年 1941 22才 秋頃 コトブキハウス六号室に転居、加瀬益子と同棲
9月20日 長男 誕生
昭和18年 1943 24才 9月30日 長男を養子にだす
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和20年 1945 26才4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
昭和24年 1949 30才6月頃 妻 子供をおいて家出
昭和26年 1951 32才 10月 妻と協議離婚
昭和31年 1956 37才 西方叡子と再婚
昭和52年 1977 58才 6月 水上勉 長男と再会
『雁の寺』が直木賞を受けたのが1961年で、『飢餓海峡』『五番町夕霧楼」(1962年)、『越前竹人形』(1963年)と、読んだ記憶がある。
NHKラジオ深夜便16日400〜500放送の明け方窪島誠一郎が朴訥と喋っていた。63才に成っておられた。
昔の記憶がよみがえってきた。
ネットで調べてみると当時の事もうっすらとよみがえってくる
昭和52年8月4日の朝日新聞朝刊の社会面である。
切抜きした新聞記事ゆえ記憶は鮮明である
「捜しあてた父は水上勉氏、”孤児の一念” 戦災の空白を克服」、
と昭和18年に養子に出した長男との再開を10段の大きなスペースを割いて報じていた
すぐに出版されているを「父への手紙」買ったが今に思えば計画的だわな〜
水上勉は昭和15年4月、21歳の時に上京、淀橋区柏木五丁目のコトブキハウスに住む加瀬益子と同棲、
昭和16年9月20日 長男(水上凌)が生れますが戦争と生活苦のため止むを得ず長男を明大前の窪島家(靴修理屋)に養子に出す、
しかし、水上勉は養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていた。
実は養父母と石巻市に疎開しており空襲は無事に逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開。
しかし本人は血液型などにより養父母が実の親ではないと確信し、
本当の両親を捜し始める、
その後「明大前物語とか出生を書いたものを出されてるが食傷気味であった。
キッド・アイラック・アート・ホールは養父の靴屋跡に戦後の土地問題を乗り越え建設したものである。
1941年東京都生まれになるわけだが、
この人は信濃デッサン館、無言館館主。を経営している。
長野県上田市に、大正・昭和の夭折画家の素描を展示するユニークな
美術館「信濃デッサン館」を開設。
関根正二遺稿・追想をよむ「小熊秀雄の世界」展とロルカなど映画界の岩波ホールの如きである。
信州の丘の上にたつ美術館からのメッセージは確かに全国に発信してある。
静かに語りかける感動のノンフィクションの世界に誘う。
如何せん、遠いワ〜
8月の平和の季節は無言館のマスコミ占拠の季節でもある。
1997年にはその隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。
もっと描きたい!描きつづけたい!
画家への道のなかばで、戦場に散った若者たち。その熱い思いと生命のさけびを、
今、〈戦争を知らない〉君たちに伝えたい。
「無言館」には、約50年前におこったあの太平洋戦争(大東亜戦争ともよばれましたが)
で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、
そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり
病気にかかったりして死んでいきました。「無言館」には、そうした画学生さんたちが、戦争にゆく前に
一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いていたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、
そのときに使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
ぼくたちは絵を描いた
ぼくたちの絵は今も生きている
戦争になんか負けないで
今も生きている
ぼくたちの絵は
戦争によって
描かされた絵でもなければ
戦争のために描いた絵でもない
ぼくたちは
ぼくたちのために絵を描いたんだ
ぼくたちだけの絵を描いたんだ
さあ、みんなみてほしい
五十年も生きつづけた
ぼくたちの美しい生命(いのち)の絵を
今こそ、みんなみてほしい――。
ラジオの窪島誠一郎63さいの言葉を拾う。
この年になると多くの人との別れと出会いがある。
窪島シゲル、ハツの養父母に二人のともらいに参列していない。
ましてや母の死は半年後に知った具合である。
人間の死は誰でも同じである。
死に様を周りに見せてくれることにより、生きる勇気を得、生きさせてくれた
自立引きずる残り時間が少ない無様な死に様はしたくない恥ずかしくない生き方答えたい
先日幼きころのお墓のことを書いて以来こんなことによく引っかかる
朝のラジオがそうさせた残り火はどうなっているのか。
残りにほど赤々と燃え盛るものはないはずだ。
そうでないとすれば私がそうして見せる!
落語「死神」の世界における私のローソクはどうなっているのであろうか。
流行語大賞は「人生いろいろ」「たかが選手」をものともせず「チョ!気持ちい」だったとか、
プロ野球の大変革につながった言葉がベスト10にも入ってないのは怪しく訝しい
所詮マスコミはマスコミ界の一員でもある読売も含め巨大な支配者がいる。
支配者も生老病死の定めには逆らえず、いずれ外棺蓋で釘を打たれ焼却されて同じである。
転生輪廻が在ろうとも今年の一年の訃報録に収まろう。
水上勉は1919年3月8日生まれの福井の人
今年2004年9月8日、肺炎のため死去した85歳。
深く沈んだ文章には瞑想が語る語り口を感じた
他方「凍てる庭」での赤裸々な法廷における離婚裁判は
ノン・フイクション張りの私小説風で読みやすかった。
それもそうであろう。実は実録であった。
京王線下高井戸の隣の明大前ここいらがどうもこの人には鬼門であった、
幼きころ禅寺で働くが出帆
貧乏作家のため二度の離婚でそれぞれ子供を残されて困り果ててしまう。お金がないと女は逃げるわ〜一度の人生を無駄にはしないも〜ん
水上勉略歴
昭和15年 1940 21才 上京
昭和16年 1941 22才 秋頃 コトブキハウス六号室に転居、加瀬益子と同棲
9月20日 長男 誕生
昭和18年 1943 24才 9月30日 長男を養子にだす
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和20年 1945 26才4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
昭和24年 1949 30才6月頃 妻 子供をおいて家出
昭和26年 1951 32才 10月 妻と協議離婚
昭和31年 1956 37才 西方叡子と再婚
昭和52年 1977 58才 6月 水上勉 長男と再会
『雁の寺』が直木賞を受けたのが1961年で、『飢餓海峡』『五番町夕霧楼」(1962年)、『越前竹人形』(1963年)と、読んだ記憶がある。
NHKラジオ深夜便16日400〜500放送の明け方窪島誠一郎が朴訥と喋っていた。63才に成っておられた。
昔の記憶がよみがえってきた。
ネットで調べてみると当時の事もうっすらとよみがえってくる
昭和52年8月4日の朝日新聞朝刊の社会面である。
切抜きした新聞記事ゆえ記憶は鮮明である
「捜しあてた父は水上勉氏、”孤児の一念” 戦災の空白を克服」、
と昭和18年に養子に出した長男との再開を10段の大きなスペースを割いて報じていた
すぐに出版されているを「父への手紙」買ったが今に思えば計画的だわな〜
水上勉は昭和15年4月、21歳の時に上京、淀橋区柏木五丁目のコトブキハウスに住む加瀬益子と同棲、
昭和16年9月20日 長男(水上凌)が生れますが戦争と生活苦のため止むを得ず長男を明大前の窪島家(靴修理屋)に養子に出す、
しかし、水上勉は養子先を知らされていなかった。
その後、明大前付近は昭和20年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものとおもわれていた。
実は養父母と石巻市に疎開しており空襲は無事に逃れていた。
戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開。
しかし本人は血液型などにより養父母が実の親ではないと確信し、
本当の両親を捜し始める、
その後「明大前物語とか出生を書いたものを出されてるが食傷気味であった。
キッド・アイラック・アート・ホールは養父の靴屋跡に戦後の土地問題を乗り越え建設したものである。
1941年東京都生まれになるわけだが、
この人は信濃デッサン館、無言館館主。を経営している。
長野県上田市に、大正・昭和の夭折画家の素描を展示するユニークな
美術館「信濃デッサン館」を開設。
関根正二遺稿・追想をよむ「小熊秀雄の世界」展とロルカなど映画界の岩波ホールの如きである。
信州の丘の上にたつ美術館からのメッセージは確かに全国に発信してある。
静かに語りかける感動のノンフィクションの世界に誘う。
如何せん、遠いワ〜
8月の平和の季節は無言館のマスコミ占拠の季節でもある。
1997年にはその隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。
もっと描きたい!描きつづけたい!
画家への道のなかばで、戦場に散った若者たち。その熱い思いと生命のさけびを、
今、〈戦争を知らない〉君たちに伝えたい。
「無言館」には、約50年前におこったあの太平洋戦争(大東亜戦争ともよばれましたが)
で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、
そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり
病気にかかったりして死んでいきました。「無言館」には、そうした画学生さんたちが、戦争にゆく前に
一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いていたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、
そのときに使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
ぼくたちは絵を描いた
ぼくたちの絵は今も生きている
戦争になんか負けないで
今も生きている
ぼくたちの絵は
戦争によって
描かされた絵でもなければ
戦争のために描いた絵でもない
ぼくたちは
ぼくたちのために絵を描いたんだ
ぼくたちだけの絵を描いたんだ
さあ、みんなみてほしい
五十年も生きつづけた
ぼくたちの美しい生命(いのち)の絵を
今こそ、みんなみてほしい――。
ラジオの窪島誠一郎63さいの言葉を拾う。
この年になると多くの人との別れと出会いがある。
窪島シゲル、ハツの養父母に二人のともらいに参列していない。
ましてや母の死は半年後に知った具合である。
人間の死は誰でも同じである。
死に様を周りに見せてくれることにより、生きる勇気を得、生きさせてくれた
自立引きずる残り時間が少ない無様な死に様はしたくない恥ずかしくない生き方答えたい
先日幼きころのお墓のことを書いて以来こんなことによく引っかかる
朝のラジオがそうさせた残り火はどうなっているのか。
残りにほど赤々と燃え盛るものはないはずだ。
そうでないとすれば私がそうして見せる!
落語「死神」の世界における私のローソクはどうなっているのであろうか。
相撲の滅んだ日?
2004年12月16日つづきで〜す
引退後には年寄・時津風を襲名、時津風部屋を興す。
時津風は大阪相撲の素性が悪かった小九紋竜が名乗った名
格落ちの名跡で歴代梅ヶ谷の名乗った雷(いかづち)親方をすすめられるも断った。
横綱のとき3代目梅ヶ谷を名乗らなかったのと同じでこだわりがなく淡白である。
双葉山は敗戦と引退で精神的に悩んだのか新興宗教璽宇教に入り、47年1月に検挙される。
このような事件さえ起こしてるのだが時代は慣用であった。
48年2月日本相撲協会理事。57年同理事長。相撲協会の刷新に尽力する。68年の今日死去。
「イマダ、モッケイニアラズ}
心の師・安岡正篤に送った電文の一節である。
安芸の海に負け69連勝がストップした日である。
「モッケイ」とは木鶏のことで、木彫りの鶏のように鍛え抜いた闘鶏は
、敵と出会ってもその威徳によって相手が畏縮して逃げてしまうという。
「うっちゃり双葉」は押し込まれての相撲で悪い形容詞エレベーター力士であった。
時の横綱玉錦
「あれでいい。力がついてくりゃ〜欠点が欠点でなくなる。」
右四つの絶対の型を持ち、右四つとなれば勝負あった。どんなときにも下半身が崩れることはなく、左上手投げの威力も抜群だった。
ビデオにも残っている。
また、双葉山と言えば、
「後の先」の立ち合い。
遅く立つと、みせて実は先にたち先手をとっている
この「後の先」は、遅れて立って下から入るなどして十分の体勢になることと理解されてるが、双葉山の目指し、完成させたものは非常に奥の深いもので余人には理解は無理とのこと。。
力士会の初代は横綱玉錦二代目は双葉山虫垂炎で急死したので引き継いだ丁度あの69連勝がスlトップする前の場所前の話である。
アメーバ赤痢にもかかっており自分を育ててくれた名横綱玉錦6連敗の後の4連勝中でもあった。
19年11月場所6日目、新鋭東富士に敗れて後継者を得たと悟り引退を決意した。
20年11月場所まで番付に名があったのは引退を引き止めたからである。
いい時代こんなもんでいいのでは。
貴乃花はかわいそう。200kを超える3人組に仁王立ち
小錦、曙、武蔵丸考えても見たまえ!農家の出での私。
小牛を市場に売るとき200K未満もいたものである。
牛より大きいんですぞ!
35連勝でスlトップの朝青龍がなにぞ!
時代、環境がいいだけじゃん!
「名随筆相撲1991年刊行」にはアララギにのった斎藤茂吉の書いた双葉山敗北記事がある。
尾崎士朗、長谷川如是閑、歌舞伎界の菊五郎も登場させ紙面のほとんどを割いた
「文芸誌ゆえなにか格好をつけたほうがいい」<笑い>と慌てて少しの歌批評を載せてるぐらいだ。
ところで、雷(いかづち)親方はだれがついでいるの?そんな大名跡を
宮崎は延岡の人、
市会議員をしておられた戸田さんのご子息。
知りません?巨人・大鵬・卵焼きの代名詞に土をつけたひとで〜す。
44年3月2日のことで社会現象にもなりました。
46連勝で大鵬に土をつけたんでは殊勲称章でも貰った?残念!
7勝8敗で負け越し
宮崎人らしい。?だってあれ足がでてたも〜ん。
勝ってないって。ゴネンネ!大鵬さん、
雷智次郎は今も立波部屋を大きく包んでいる。
双葉山は多くの後輩を育てた。
横綱鏡里、大関大内山、豊山、北葉山
いつまでも忘れ得ない名力士たちである。
引退後には年寄・時津風を襲名、時津風部屋を興す。
時津風は大阪相撲の素性が悪かった小九紋竜が名乗った名
格落ちの名跡で歴代梅ヶ谷の名乗った雷(いかづち)親方をすすめられるも断った。
横綱のとき3代目梅ヶ谷を名乗らなかったのと同じでこだわりがなく淡白である。
双葉山は敗戦と引退で精神的に悩んだのか新興宗教璽宇教に入り、47年1月に検挙される。
このような事件さえ起こしてるのだが時代は慣用であった。
48年2月日本相撲協会理事。57年同理事長。相撲協会の刷新に尽力する。68年の今日死去。
「イマダ、モッケイニアラズ}
心の師・安岡正篤に送った電文の一節である。
安芸の海に負け69連勝がストップした日である。
「モッケイ」とは木鶏のことで、木彫りの鶏のように鍛え抜いた闘鶏は
、敵と出会ってもその威徳によって相手が畏縮して逃げてしまうという。
「うっちゃり双葉」は押し込まれての相撲で悪い形容詞エレベーター力士であった。
時の横綱玉錦
「あれでいい。力がついてくりゃ〜欠点が欠点でなくなる。」
右四つの絶対の型を持ち、右四つとなれば勝負あった。どんなときにも下半身が崩れることはなく、左上手投げの威力も抜群だった。
ビデオにも残っている。
また、双葉山と言えば、
「後の先」の立ち合い。
遅く立つと、みせて実は先にたち先手をとっている
この「後の先」は、遅れて立って下から入るなどして十分の体勢になることと理解されてるが、双葉山の目指し、完成させたものは非常に奥の深いもので余人には理解は無理とのこと。。
力士会の初代は横綱玉錦二代目は双葉山虫垂炎で急死したので引き継いだ丁度あの69連勝がスlトップする前の場所前の話である。
アメーバ赤痢にもかかっており自分を育ててくれた名横綱玉錦6連敗の後の4連勝中でもあった。
19年11月場所6日目、新鋭東富士に敗れて後継者を得たと悟り引退を決意した。
20年11月場所まで番付に名があったのは引退を引き止めたからである。
いい時代こんなもんでいいのでは。
貴乃花はかわいそう。200kを超える3人組に仁王立ち
小錦、曙、武蔵丸考えても見たまえ!農家の出での私。
小牛を市場に売るとき200K未満もいたものである。
牛より大きいんですぞ!
35連勝でスlトップの朝青龍がなにぞ!
時代、環境がいいだけじゃん!
「名随筆相撲1991年刊行」にはアララギにのった斎藤茂吉の書いた双葉山敗北記事がある。
尾崎士朗、長谷川如是閑、歌舞伎界の菊五郎も登場させ紙面のほとんどを割いた
「文芸誌ゆえなにか格好をつけたほうがいい」<笑い>と慌てて少しの歌批評を載せてるぐらいだ。
ところで、雷(いかづち)親方はだれがついでいるの?そんな大名跡を
宮崎は延岡の人、
市会議員をしておられた戸田さんのご子息。
知りません?巨人・大鵬・卵焼きの代名詞に土をつけたひとで〜す。
44年3月2日のことで社会現象にもなりました。
46連勝で大鵬に土をつけたんでは殊勲称章でも貰った?残念!
7勝8敗で負け越し
宮崎人らしい。?だってあれ足がでてたも〜ん。
勝ってないって。ゴネンネ!大鵬さん、
雷智次郎は今も立波部屋を大きく包んでいる。
双葉山は多くの後輩を育てた。
横綱鏡里、大関大内山、豊山、北葉山
いつまでも忘れ得ない名力士たちである。
相撲の滅んだ日
2004年12月16日p/sのリソースのエラー表示に悩み続けていたがついに挑戦に見事成功した。
リカバリーをしたのである。実に二日もかかってるんだも〜ん
よって18日にこれを書いている。
16日はあの双葉山が逝った日である。
相撲については幼き経験での自慢話がある。
野蛮な時代である。 隣地区は石を投げたりでの喧嘩相手。
その校区の違う隣地区の村祭りで5人抜きで画板を景品にいただいた。
力道山と双葉山の死はショックであった。
特に双葉山のときは大人の年齢であったときなのでお恥ずかしい限り。
追悼双葉山として偲んでみたい。
・・ながさきけん・・ごとうしゅっしん・・佐田の〜山〜
いらい横綱がいないんだも〜ん。
律令時代の九州も大宰府の置かれた頃より福岡が常に中心であった。
地勢・地形的にも大陸との窓口でその要素があったからであろう
二度の元寇を乗り切り、秀吉の時には朝鮮半島に加藤、小西、島津と九州の大名は功を上げ覇を立てんとした。
情と義理に厚い九州人が関が原で東西に分かれる元ともなる。
日清、日露果ては満州事変から続く16年戦争次には軍略的重みは少しは遠のいた。
バブル崩壊後の経済回復となり集中的に玄関口と見直されてきてる。
ダイハツは大分・中津に本社工場のすべて移転してガソリン車からの脱却を計ろう。
このように見てくると九州北部が常に歴史の中心であった。
しかしながら大宰府庁に負けエヌ九州に威光を発揮した地方がある。宇佐市である。
宇佐市は、南部に御許山(おもとさん,馬城の峰)を中心とした緑豊かな山系が連なり、やっかんがわは言葉から先に覚えた地名で(駅館川と書くようだが)河川の中枢に位置し水源をなしている。
古代より駅館川の活動は広大な宇佐平野を形成し肥沃な大地をくれた。
九州でも有数の大穀倉地帯として、古くから稲作農業の中心をなしていた
富は奈良の大仏建立にさえさしだされ,4万を超える全国神宮の頂点に立っている宇佐神宮
、標高20〜40メートルの洪積層台地の宇佐・糸口山台地は地形が豊かで、果実や畜産、畑作なども盛ん。
北部に周防灘をのぞむ海岸線は、東西18キロメートルにもおよび、干潮時には、3〜4キロメートルの沖合いまで干潟になる屈指の遠浅の海で、古くから沿岸漁業が盛ん
豊かな自然は富をつくり、富は人を作り人材を輩出する。
大地には水無くして発展はない。。
日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水をつくったひと。
土木の近代土木の父である南 一郎平みなみ いちろべい はここ宇佐の人である。
市内金屋に生まれ、当時水の便になやまされていた駅館川東側台地に水路を引く亡き父の悲願の意志を引継ぎのちに広瀬用水を完成させた。
財政困難のため、島原藩に援助金を頼んだり、資金づくりのため井手切手を発行したり、工夫を重ねた
明治時代には、全国の疎水工事に力をつくし、日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水を創った人として土木事業で名をなした。
今も、広瀬地区には初期の水路跡が残る個所があり、当時の工事の困難さが感じ取れる。
若者は時代を作るその若者が目指すものは「アーテスト!」は常に若者の夢の一番にくる。
作曲家と新聞の漫画と先駆的働きをした二人がいる。
新聞4コマ漫画の最初は只野凡児の「ノンキナトウサン」であろう。
作者麻生 豊は市内下麻生で18歳まで育った。
工手学校を卒業し、大正12年東京報知新聞社に漫画記者として入社。
関東大震災後、すぐ被災者たちの心を慰め勇気づける 漫画を描くよう依頼され、「ノンキナトウサン」の連載を はじめた。、
新聞4コマ漫画の草分けとなった人。
常に時勢を見極める洞察力で、どこにでもいる庶民の代表者を書き続け、昭和の終戦後は東京銀座が復興する姿を絵巻きにして、
全22巻を書きあげている
釣を楽しんだ伊呂波川を見下ろす 高台にお墓がある。
「その質において日本人最高の作曲家は、清瀬保二(1900〜1981)であろう。」と言われる。
それにしては、滝廉太郎のように名を多くには知られてない。
清瀬の弟子であった武満徹のCDは、数多く売り出されているが、
清瀬保二のCDは、柳兼子が歌った歌曲を除くと、オーケストラ曲も室内楽曲もピアノ曲もほとんど発売されていない。
したがって、彼の曲がどのようなものなのか?は、一般には知られていないのが実情だ
1清瀬保二は、武者小路実篤より15年下の1900年生まれだが、二十歳のときに、バイオリン一つを持って宮崎県の「新しき村」に入ろうと考えたそうだ。
「ロダンの言葉(抄)」(高村光太郎訳)で、基本方針が定まったという。
、当時の多感な青年たちと同じく、白樺派の醸し出す思想に共感していたことが分かる。
それほど宮崎児湯郡木城の「新しき村」のパッションさえ感じさせる。
、清瀬の基本は民族の持つ独自性にある。それは幼児環境にあるようだ。
彼の母はいつも就寝前に親鸞の思想を広めた蓮如の文章を読むのを日課としていて、幼い頃より保二はそれを傍で聞いていたという。
19歳の時作曲家を志して上京し、山田耕作に師事。
30歳で日本現代音楽協会の前身である、新興作曲家連盟の結成に参加した
戦後はNHKの専属ラジオ音楽を担当し、活躍。
歌曲から合唱曲・映画・劇音楽・舞踏組曲・管弦組曲など幅広い作曲活動を続け、日本の現代音楽を世界に紹介した人。
宇佐市内四日市地区に「音の調べ通り」という清瀬保二にちなんで名づけられた公園がある。
宇佐市のホーム。ページ「だいナミック」はどうも宮崎都城の泉ヶ丘の先生のごたる?
宮崎県と宇佐市は仲良し?
いいやぁ〜アメリカとはもっと仲良し?
市名をスペルと・・・・U・S・A・である。・・
・ウソ〜!・・うさです〜
九州場所は分裂場所。理事が親方で運営されており同門とかの古き因習が出た。
日本人横綱を作るや否やでもめた.ネタのできた週間ポストはさぞ大喜びであろう。
連続の優勝なしではそりやァ〜・・相撲の国際化は協会の運営が確かに難しかろう。
手刀の切り方ひとつ変えないもん!不浄なる手で賞金貰うバカどこにいる?外人のみ
島国の文化は様式美でその人の心さえわかる
横綱は全人格者のトータルの称号常に目指すものである。
頂点を極めたものに与えられるものではない。免許の挨拶の使者にに何と誓った
相撲ではなく相撲「道」なのである。
貴乃花の足元にも及ばない内面性のウスッペラな一人横綱である。
師匠の言うこときかづしてこの世界に残れる資格もない。
k−1にいずれ行くのであろう所詮稼ぎにきてるだけ。
松井、イチロの聖人君子ぶりを見習え!スポーツは文化ぞ!
宮廷行事で相撲節、神事である
古代相撲のタイマのケハヤvsノミノスクネは中学時代の40年前の記憶として
いまだ忘れエヌほど感激した。
宇佐市天津小のホーム。ページである。
「大相撲で昭和11年 1月〜昭和14年 1月までの間、一度も負けずに 69連勝した第35代横綱です。
その双葉山が生まれ育ったのがここ天津なのです。」
双葉山は、幼少の頃に右手小指の先を失い、右目を失明し相撲は嫌いであった
余り知られていない逸話である。
親の借金払いのため々大分の先輩の小野川部屋でなく立浪部屋に入門。
以下次数制限で続き
リカバリーをしたのである。実に二日もかかってるんだも〜ん
よって18日にこれを書いている。
16日はあの双葉山が逝った日である。
相撲については幼き経験での自慢話がある。
野蛮な時代である。 隣地区は石を投げたりでの喧嘩相手。
その校区の違う隣地区の村祭りで5人抜きで画板を景品にいただいた。
力道山と双葉山の死はショックであった。
特に双葉山のときは大人の年齢であったときなのでお恥ずかしい限り。
追悼双葉山として偲んでみたい。
・・ながさきけん・・ごとうしゅっしん・・佐田の〜山〜
いらい横綱がいないんだも〜ん。
律令時代の九州も大宰府の置かれた頃より福岡が常に中心であった。
地勢・地形的にも大陸との窓口でその要素があったからであろう
二度の元寇を乗り切り、秀吉の時には朝鮮半島に加藤、小西、島津と九州の大名は功を上げ覇を立てんとした。
情と義理に厚い九州人が関が原で東西に分かれる元ともなる。
日清、日露果ては満州事変から続く16年戦争次には軍略的重みは少しは遠のいた。
バブル崩壊後の経済回復となり集中的に玄関口と見直されてきてる。
ダイハツは大分・中津に本社工場のすべて移転してガソリン車からの脱却を計ろう。
このように見てくると九州北部が常に歴史の中心であった。
しかしながら大宰府庁に負けエヌ九州に威光を発揮した地方がある。宇佐市である。
宇佐市は、南部に御許山(おもとさん,馬城の峰)を中心とした緑豊かな山系が連なり、やっかんがわは言葉から先に覚えた地名で(駅館川と書くようだが)河川の中枢に位置し水源をなしている。
古代より駅館川の活動は広大な宇佐平野を形成し肥沃な大地をくれた。
九州でも有数の大穀倉地帯として、古くから稲作農業の中心をなしていた
富は奈良の大仏建立にさえさしだされ,4万を超える全国神宮の頂点に立っている宇佐神宮
、標高20〜40メートルの洪積層台地の宇佐・糸口山台地は地形が豊かで、果実や畜産、畑作なども盛ん。
北部に周防灘をのぞむ海岸線は、東西18キロメートルにもおよび、干潮時には、3〜4キロメートルの沖合いまで干潟になる屈指の遠浅の海で、古くから沿岸漁業が盛ん
豊かな自然は富をつくり、富は人を作り人材を輩出する。
大地には水無くして発展はない。。
日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水をつくったひと。
土木の近代土木の父である南 一郎平みなみ いちろべい はここ宇佐の人である。
市内金屋に生まれ、当時水の便になやまされていた駅館川東側台地に水路を引く亡き父の悲願の意志を引継ぎのちに広瀬用水を完成させた。
財政困難のため、島原藩に援助金を頼んだり、資金づくりのため井手切手を発行したり、工夫を重ねた
明治時代には、全国の疎水工事に力をつくし、日本三大疎水といわれる安積疎水、那須疎水、琵琶湖疎水を創った人として土木事業で名をなした。
今も、広瀬地区には初期の水路跡が残る個所があり、当時の工事の困難さが感じ取れる。
若者は時代を作るその若者が目指すものは「アーテスト!」は常に若者の夢の一番にくる。
作曲家と新聞の漫画と先駆的働きをした二人がいる。
新聞4コマ漫画の最初は只野凡児の「ノンキナトウサン」であろう。
作者麻生 豊は市内下麻生で18歳まで育った。
工手学校を卒業し、大正12年東京報知新聞社に漫画記者として入社。
関東大震災後、すぐ被災者たちの心を慰め勇気づける 漫画を描くよう依頼され、「ノンキナトウサン」の連載を はじめた。、
新聞4コマ漫画の草分けとなった人。
常に時勢を見極める洞察力で、どこにでもいる庶民の代表者を書き続け、昭和の終戦後は東京銀座が復興する姿を絵巻きにして、
全22巻を書きあげている
釣を楽しんだ伊呂波川を見下ろす 高台にお墓がある。
「その質において日本人最高の作曲家は、清瀬保二(1900〜1981)であろう。」と言われる。
それにしては、滝廉太郎のように名を多くには知られてない。
清瀬の弟子であった武満徹のCDは、数多く売り出されているが、
清瀬保二のCDは、柳兼子が歌った歌曲を除くと、オーケストラ曲も室内楽曲もピアノ曲もほとんど発売されていない。
したがって、彼の曲がどのようなものなのか?は、一般には知られていないのが実情だ
1清瀬保二は、武者小路実篤より15年下の1900年生まれだが、二十歳のときに、バイオリン一つを持って宮崎県の「新しき村」に入ろうと考えたそうだ。
「ロダンの言葉(抄)」(高村光太郎訳)で、基本方針が定まったという。
、当時の多感な青年たちと同じく、白樺派の醸し出す思想に共感していたことが分かる。
それほど宮崎児湯郡木城の「新しき村」のパッションさえ感じさせる。
、清瀬の基本は民族の持つ独自性にある。それは幼児環境にあるようだ。
彼の母はいつも就寝前に親鸞の思想を広めた蓮如の文章を読むのを日課としていて、幼い頃より保二はそれを傍で聞いていたという。
19歳の時作曲家を志して上京し、山田耕作に師事。
30歳で日本現代音楽協会の前身である、新興作曲家連盟の結成に参加した
戦後はNHKの専属ラジオ音楽を担当し、活躍。
歌曲から合唱曲・映画・劇音楽・舞踏組曲・管弦組曲など幅広い作曲活動を続け、日本の現代音楽を世界に紹介した人。
宇佐市内四日市地区に「音の調べ通り」という清瀬保二にちなんで名づけられた公園がある。
宇佐市のホーム。ページ「だいナミック」はどうも宮崎都城の泉ヶ丘の先生のごたる?
宮崎県と宇佐市は仲良し?
いいやぁ〜アメリカとはもっと仲良し?
市名をスペルと・・・・U・S・A・である。・・
・ウソ〜!・・うさです〜
九州場所は分裂場所。理事が親方で運営されており同門とかの古き因習が出た。
日本人横綱を作るや否やでもめた.ネタのできた週間ポストはさぞ大喜びであろう。
連続の優勝なしではそりやァ〜・・相撲の国際化は協会の運営が確かに難しかろう。
手刀の切り方ひとつ変えないもん!不浄なる手で賞金貰うバカどこにいる?外人のみ
島国の文化は様式美でその人の心さえわかる
横綱は全人格者のトータルの称号常に目指すものである。
頂点を極めたものに与えられるものではない。免許の挨拶の使者にに何と誓った
相撲ではなく相撲「道」なのである。
貴乃花の足元にも及ばない内面性のウスッペラな一人横綱である。
師匠の言うこときかづしてこの世界に残れる資格もない。
k−1にいずれ行くのであろう所詮稼ぎにきてるだけ。
松井、イチロの聖人君子ぶりを見習え!スポーツは文化ぞ!
宮廷行事で相撲節、神事である
古代相撲のタイマのケハヤvsノミノスクネは中学時代の40年前の記憶として
いまだ忘れエヌほど感激した。
宇佐市天津小のホーム。ページである。
「大相撲で昭和11年 1月〜昭和14年 1月までの間、一度も負けずに 69連勝した第35代横綱です。
その双葉山が生まれ育ったのがここ天津なのです。」
双葉山は、幼少の頃に右手小指の先を失い、右目を失明し相撲は嫌いであった
余り知られていない逸話である。
親の借金払いのため々大分の先輩の小野川部屋でなく立浪部屋に入門。
以下次数制限で続き
決断!加わるべきか
2004年12月15日「時は元禄15年12月14日・・・」
講釈台をビシビシとたたく音が聞こえそうです。」
吉良邸に討ち入る47士の打ち鳴らす山鹿流陣太鼓
いいですね〜
エェツ!1日遅れの今日は15日だと〜エェイ!もういいや〜
社会的には前の夜をその日とするゆえそうなるんである。
正確には元禄15年12月15日の午前4時頃のこと。
・・・・・・ 悔しい!強がってま〜す<笑>
こうなれば井沢元彦流の逆説忠臣蔵だ。
まずは割腹した人数から幕府の記録では正確には46士である。
寺坂吉右衛門は密使としての役割で吉良邸を引き上げるとき密使の役割もあり割腹し果てていない。
つまり生き残りのものがいたのある。
ドキュメントものの出版でもさせたら凄かろう。
これにはシバレンこと柴田錬三郎の作品がある。
・・・・
堀部安兵衛の許婚が亀戸に住んで弔らっていた
「妙戒依」<ミョウカイイ><字面あってるかな?>と称していた
高輪まで遠いので参詣しやすくとの江戸庶民の義侠心・江戸っ子ぶりが働き、泉岳寺のまえに庵をあんでショウジョウ庵と称し「妙戒依」は移り住んだ、
義士の話を聞くため引っ切り無しの泉岳寺
話のお礼で裕福であったが奢りも出始め、傲慢になり都合をいい参詣者に会わない日も出てきた。
遺児の堀部ヤソジが面倒を見ていた。
「10両包むので義士の話を聞かせてくれ!」
と会うのを断り続けられてた老師が現れた。
義士のことを話す「妙戒依」
「本当にそうですか」
矛盾点、話が変わっていくところを追求して
話を変えないように説諭する。
さらに、本当に許婚であったのかとさえ詰め寄る
墓に詣でて語る
「ご無沙汰をしておりました」
作者は言わないが読者には寺坂吉右衛門!その人を感じ取るシバレン作品の構成は見事!
ほんの少し昔の人はこのことを誰でも知っていたからである。
「当時36歳、裏門より討入りもうした。」
四十七士のうちただ一人生き残り、83歳まで生き延びたという。
寺崎忠左衛門の足軽として同志の連絡にあたり、討入り後、泉岳寺に引き揚げる時内蔵助から立ち去るように諭され
残された家族に見聞したことを伝える役目を与えられた
吉右衛門は後世の人のための「生き証人」として『忠臣蔵』〜赤穂義士物語を語り継いだ。
シバレンはこれを小説としたのである。
あいかわらずの都内一の人気の寺・高輪泉岳寺
去年まで ただの寺なり 泉岳寺
処分は浪士たちの遺児にも及んだ。
大石大三郎はじめ浪士の遺児19人に遠島流罪が申し渡され、内15歳以上の4名が実際に伊豆大島に流罪となり、15歳以下のものは親類預けとなった。
遠島になった4名の内1名は、赦免を待たず、遠島中に死亡した。
神崎世次郎は盗賊になり、大三郎も大石家の名を下げた
吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
史実を追ってみるといろいろとあがってくる。
元禄14年(1701年)3月14日午前11時頃が松の廊下の事件
元禄15年11月29日には、瑶泉院に報告にあがる
元禄15年12月14日15日午前4時頃
元禄16年2月4日に切腹<(現在の3月10日ころ>
旧暦12月15目は、現在の1月16日ころに相当し、その4日前に降雪があったが、当日に雪は降ってなかったらしい。
江戸城の“松の廊下"は公家以上の高家専用で、武家は通れないから、現場は違うトコロのはず。
大石内蔵助良雄は、真に女好きの遊び好きであった、とか。
「男でござ一る」の天野屋利兵衛や槍の名人の俵星玄蛮は架空の人物。
討ち入りに際しては黒地に白くジグザグ棋様(山型) を縁取った羽織や名前を書いた半襟なんぞは着てなかった。後の歌舞技上演に始まること。
隠密裏におこなう夜襲には山鹿流とされる陣太鼓や笛を鳴らすのは、もっての外である。
仇役の吉良上野介(享年62歳)は、三州塩の塩田を開発したり、用水や排水の築造などで領民の生活を向上させていて名君の誉れ高かったとのこと。
お城け渡し前に金を持って逃げたとされる大野九郎兵衛(勘定役)
福島県板谷峠に彼の墓があるという。
この峠こそは、もし吉良上野介が江戸を逃げて、息子の領地・上杉家領内(山形県)へ向かおうとする時、必ず通る道で、ここで一人待ち伏せしていたのだそうな。名誉回復させとこっと
実に用意周到に作戦は練られていたのである。
同士は最大で130人くらいいたが47士になった。
江戸急進派の1人高田郡兵衛は養父に仇討ちの計画がばれ、同士から脱退しなければ幕府へ訴えると言われたので、同士から脱退
刃傷事件を早駕籠で伝えた萱野三平は、仇討ちの意志と、父の仕官の勧めとの板ばさみに悩み、元禄15年1月14日に自殺
月日は人の心もすっかり変える。
事件より47年後、時代を平安にし登場人物名を変え「仮名手本忠臣蔵」として11段の物語とした。
あの近松門左衛門がこの話をもとに「太平記」を書き上げ、最初に人形浄瑠璃が演じられたのが大阪の竹本座(1706年)
さらに竹田出雲らの「仮名手本忠臣蔵」の初演(1748年)竹本座。
赤穂ものは人形浄瑠璃や歌舞伎、浪曲講談にあるところだ
私は円楽師の「中村仲蔵」や浪曲の義士伝は誰のでも言い。
浅草・木馬館では寄席のように出演者を見ないで木戸にいるぐらいだ、
大仏次郎は『赤穂浪士』で、この赤穂事件を大胆に読み替えた。
主君の仇をうつ忠孝の臣とされた大石内蔵助を幕藩体制に抗議する
批判者として描いた。
「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」。
批判者としての大石を生き生きと描くことで「忠君愛国」
的な時代思潮をみごとに裏返してみせた。
小説が書かれた昭和二年は、不況風が吹く金融恐慌の頃。
失業者が群れたこの時代を武士があぶれた元録時代に重ねあわせた。
上杉方の間者になり大石らの動きを追う堀田隼人や怪盗「蜘蛛の陣十郎」、架空のこの二人もまた時代が生み落とした浪人だった。
大仏はこの小説で「義士」でなく「浪士」を書いた。だから浪士たちの世俗的な悩みや苦しみもどこか実感がともなう。
、
「もっともらしい理屈や意見は平穏無事の時のことだ。いざとなると人間は卑怯か卑怯でないかに分かれる。
なまじ知恵があったり学問のある上層の者が事変に無力になるのはそのためだ
大石のつぶやきは私が一番実感しそのまま現代にも通じる。
『赤穂浪士』が、いまだに新鮮に読めるのはそのせいかもしれない。
四十七士らをまつる赤穂の大石神社に一通の公文書が保存されていた。城明渡しのさいに作成された城内所蔵品リスト。
『城内犬之覚』には「赤 拾匹、白 九匹、赤ぶち 一匹、黒 弐匹、 外に子犬八匹 廊下下などに所在 員数不明」。
城を後にする浪士たちの律儀さか、それとも”お犬将軍”への皮肉だったのだろうか。
そんな時代の閉塞感のなかで浪士たちは「討ち入り」を果たし、ニヒルな浪人、堀田隼人は討ち入りによる変革を期待する。
しかし変わらない、むしろ武士道はすたれていく。
殿中での刃傷事件が起きてからことしで三百二年になる。
赤穂浪士は外伝のほうが面白いのかもしれない。
講釈台をビシビシとたたく音が聞こえそうです。」
吉良邸に討ち入る47士の打ち鳴らす山鹿流陣太鼓
いいですね〜
エェツ!1日遅れの今日は15日だと〜エェイ!もういいや〜
社会的には前の夜をその日とするゆえそうなるんである。
正確には元禄15年12月15日の午前4時頃のこと。
・・・・・・ 悔しい!強がってま〜す<笑>
こうなれば井沢元彦流の逆説忠臣蔵だ。
まずは割腹した人数から幕府の記録では正確には46士である。
寺坂吉右衛門は密使としての役割で吉良邸を引き上げるとき密使の役割もあり割腹し果てていない。
つまり生き残りのものがいたのある。
ドキュメントものの出版でもさせたら凄かろう。
これにはシバレンこと柴田錬三郎の作品がある。
・・・・
堀部安兵衛の許婚が亀戸に住んで弔らっていた
「妙戒依」<ミョウカイイ><字面あってるかな?>と称していた
高輪まで遠いので参詣しやすくとの江戸庶民の義侠心・江戸っ子ぶりが働き、泉岳寺のまえに庵をあんでショウジョウ庵と称し「妙戒依」は移り住んだ、
義士の話を聞くため引っ切り無しの泉岳寺
話のお礼で裕福であったが奢りも出始め、傲慢になり都合をいい参詣者に会わない日も出てきた。
遺児の堀部ヤソジが面倒を見ていた。
「10両包むので義士の話を聞かせてくれ!」
と会うのを断り続けられてた老師が現れた。
義士のことを話す「妙戒依」
「本当にそうですか」
矛盾点、話が変わっていくところを追求して
話を変えないように説諭する。
さらに、本当に許婚であったのかとさえ詰め寄る
墓に詣でて語る
「ご無沙汰をしておりました」
作者は言わないが読者には寺坂吉右衛門!その人を感じ取るシバレン作品の構成は見事!
ほんの少し昔の人はこのことを誰でも知っていたからである。
「当時36歳、裏門より討入りもうした。」
四十七士のうちただ一人生き残り、83歳まで生き延びたという。
寺崎忠左衛門の足軽として同志の連絡にあたり、討入り後、泉岳寺に引き揚げる時内蔵助から立ち去るように諭され
残された家族に見聞したことを伝える役目を与えられた
吉右衛門は後世の人のための「生き証人」として『忠臣蔵』〜赤穂義士物語を語り継いだ。
シバレンはこれを小説としたのである。
あいかわらずの都内一の人気の寺・高輪泉岳寺
去年まで ただの寺なり 泉岳寺
処分は浪士たちの遺児にも及んだ。
大石大三郎はじめ浪士の遺児19人に遠島流罪が申し渡され、内15歳以上の4名が実際に伊豆大島に流罪となり、15歳以下のものは親類預けとなった。
遠島になった4名の内1名は、赦免を待たず、遠島中に死亡した。
神崎世次郎は盗賊になり、大三郎も大石家の名を下げた
吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。
史実を追ってみるといろいろとあがってくる。
元禄14年(1701年)3月14日午前11時頃が松の廊下の事件
元禄15年11月29日には、瑶泉院に報告にあがる
元禄15年12月14日15日午前4時頃
元禄16年2月4日に切腹<(現在の3月10日ころ>
旧暦12月15目は、現在の1月16日ころに相当し、その4日前に降雪があったが、当日に雪は降ってなかったらしい。
江戸城の“松の廊下"は公家以上の高家専用で、武家は通れないから、現場は違うトコロのはず。
大石内蔵助良雄は、真に女好きの遊び好きであった、とか。
「男でござ一る」の天野屋利兵衛や槍の名人の俵星玄蛮は架空の人物。
討ち入りに際しては黒地に白くジグザグ棋様(山型) を縁取った羽織や名前を書いた半襟なんぞは着てなかった。後の歌舞技上演に始まること。
隠密裏におこなう夜襲には山鹿流とされる陣太鼓や笛を鳴らすのは、もっての外である。
仇役の吉良上野介(享年62歳)は、三州塩の塩田を開発したり、用水や排水の築造などで領民の生活を向上させていて名君の誉れ高かったとのこと。
お城け渡し前に金を持って逃げたとされる大野九郎兵衛(勘定役)
福島県板谷峠に彼の墓があるという。
この峠こそは、もし吉良上野介が江戸を逃げて、息子の領地・上杉家領内(山形県)へ向かおうとする時、必ず通る道で、ここで一人待ち伏せしていたのだそうな。名誉回復させとこっと
実に用意周到に作戦は練られていたのである。
同士は最大で130人くらいいたが47士になった。
江戸急進派の1人高田郡兵衛は養父に仇討ちの計画がばれ、同士から脱退しなければ幕府へ訴えると言われたので、同士から脱退
刃傷事件を早駕籠で伝えた萱野三平は、仇討ちの意志と、父の仕官の勧めとの板ばさみに悩み、元禄15年1月14日に自殺
月日は人の心もすっかり変える。
事件より47年後、時代を平安にし登場人物名を変え「仮名手本忠臣蔵」として11段の物語とした。
あの近松門左衛門がこの話をもとに「太平記」を書き上げ、最初に人形浄瑠璃が演じられたのが大阪の竹本座(1706年)
さらに竹田出雲らの「仮名手本忠臣蔵」の初演(1748年)竹本座。
赤穂ものは人形浄瑠璃や歌舞伎、浪曲講談にあるところだ
私は円楽師の「中村仲蔵」や浪曲の義士伝は誰のでも言い。
浅草・木馬館では寄席のように出演者を見ないで木戸にいるぐらいだ、
大仏次郎は『赤穂浪士』で、この赤穂事件を大胆に読み替えた。
主君の仇をうつ忠孝の臣とされた大石内蔵助を幕藩体制に抗議する
批判者として描いた。
「われらの志すところだが、上野介はただ当面の手段にすぎない。敵はその背後のものである。亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである」。
批判者としての大石を生き生きと描くことで「忠君愛国」
的な時代思潮をみごとに裏返してみせた。
小説が書かれた昭和二年は、不況風が吹く金融恐慌の頃。
失業者が群れたこの時代を武士があぶれた元録時代に重ねあわせた。
上杉方の間者になり大石らの動きを追う堀田隼人や怪盗「蜘蛛の陣十郎」、架空のこの二人もまた時代が生み落とした浪人だった。
大仏はこの小説で「義士」でなく「浪士」を書いた。だから浪士たちの世俗的な悩みや苦しみもどこか実感がともなう。
、
「もっともらしい理屈や意見は平穏無事の時のことだ。いざとなると人間は卑怯か卑怯でないかに分かれる。
なまじ知恵があったり学問のある上層の者が事変に無力になるのはそのためだ
大石のつぶやきは私が一番実感しそのまま現代にも通じる。
『赤穂浪士』が、いまだに新鮮に読めるのはそのせいかもしれない。
四十七士らをまつる赤穂の大石神社に一通の公文書が保存されていた。城明渡しのさいに作成された城内所蔵品リスト。
『城内犬之覚』には「赤 拾匹、白 九匹、赤ぶち 一匹、黒 弐匹、 外に子犬八匹 廊下下などに所在 員数不明」。
城を後にする浪士たちの律儀さか、それとも”お犬将軍”への皮肉だったのだろうか。
そんな時代の閉塞感のなかで浪士たちは「討ち入り」を果たし、ニヒルな浪人、堀田隼人は討ち入りによる変革を期待する。
しかし変わらない、むしろ武士道はすたれていく。
殿中での刃傷事件が起きてからことしで三百二年になる。
赤穂浪士は外伝のほうが面白いのかもしれない。
ネット 復元
2004年12月14日nacky先生
ご新築での生活おめでとうございます。
これからお家ますますのご発展をお祈りいたしております。
ここの欄でよかったのかな?
お祝い事ゆえお許しください。
巷の{ショウ}一月{ゴ}五月{ク}九月の引越しはしないほうがいい。とのことで12月でした?んでしょうか
実は私も1月を前にしての慌しい引越しでした。
その余波で昨日以来振り回されています。
急遽の引越しもさることながら、ネット環境がすこぶる悪く
午後4時頃から電柱から電話ケーブルの張替えとしていただきました。
昨日から、かかりっきりです。
それにしても時代でしょうね
お医者様とお話がいとも簡単にできるのですね
「医者と弁護士を友達に持て!」は生きぬく処世術。
庶民の隠れた知恵。まさに至言。
もっとも、かっては何をかいわんやの如きであったが、いかに底浅き安定した人生であったのであろう。
ゆえに理解できてない言葉でした。
無一文からの起業それも50才をすぎているとなればなおさらのこと
この場に及んで弁護士先生にご厄介になろうとは思いもしませんでした。
ネット社会はこのような高貴な方のご意見も簡単に聞ける有り難き時代であリますね。
重ねて新居おめでとうございます、・なにかアルゾ!営業マンの手?・
あわよくば太陽の恵みでの生活をしてはいただけませんか・ホラ!きた
自家発電による生活です・・・・しっかり営業してるガンバレ!笑い
おそらく一番安く施工できますもちろん施工技術も負けません
太陽光発電を設置されますと・・・・ クドイ!笑い。。怒り
まあ〜新築ゆえの〜お目出度き三河漫才としてお聞き流してください。
新築での生活まことにおめでとうございます。
お目出度いと言えば街に門松を見かける時節柄と相成った。
江平の日章学園を最初に見かけたが、泰平な生活であったのであろう。
私はそれどこでなく店舗の看板さえ頼んでない
どうしょう
風力・太陽光発電相談所
人と地球にやさしいアパデン宮崎
イイジャン!これでいこう。
取り付く島がないほどの仲間のみんな。
どうしたものであろうか。
ゆうさんや中村会長からの有り難きお言葉のはどれだけ勇気付けられてるか。
それにつけ、手のひらを返したような対応では所詮お里が知れよう者をとんだ再出発である。
給料「0」ではお話が違うではないか。
支出の帳尻は合ってるのにこれではどうしようもない。
閉じこもりからの脱却なくして進展はない。まるで閉所恐怖症
書を捨てて街に出よう
閉所恐怖症は精神不安定期の青春時代にあるのではまかろうか。
中学教科書で「山椒魚」に出会った。
太宰治が中学生だった1922年同人誌の井伏鱒二の作品を読んで
「座って折れないくらい興奮した」あの文庫で10ページ足らずの短い作品である。
志賀直哉の「城之崎にて」中勘助「銀の匙」に比するものである。
・・・・
山椒魚は悲しんだ
彼のすみかである岩屋から外に出ようとしたのであるが
頭が出口につっかえて外にでることができなかった
山椒魚は閉じた目蓋を開こうとはしなかった
何となればその自由とその可能性が与えられていただけだったからなのだ
・・・・
共存できえない一匹の蛙が岩屋に紛れ込む。
一瞬の緊張感!
岩屋の天井の窪みに隠れじっとしている
2年が過ぎ山椒魚が蛙に聞く
「お前は今どういうことを考えている」
「今でも別にお前のことをおこってはいないんだ」
これが確か結末の場面であった。・・・違ってるか?
社会人にならなければならぬ恐怖症に閉所恐怖症が加わり、
このとき以来抜けきれず備わってしまった。わたしの閉所恐怖症
これじゃぁ〜お医者様でも・草津の湯でも根が深くてなおりゃせぬワ〜
それにPTSが加わったのでまるで分裂症{差別用語と糾弾しないでくださ〜い!}患者ではないか。
岩穴で何もせず食べ考えてばかりいると岩穴から出られなくなるというたわいもない話しにである。
もっと史実からとった作品の芥川や森鴎外の作品の方がリアリテイーがあったろうにである。
わが宮崎で芥川や直木賞に最も近かった中村地平はその愛弟子であった。
さらにヤクルト池上監督の父たることから、DNAはあらゆる優位性があったのであろう。
酒を飲まぬ人はひとつの人生しか歩いていないは言いえて妙、卓見である。
ますます酒でも飲まぬ訳けにはいかないではないか。
お寺さんによると今年の一字は「災」と決まったようである。
私は切実にそう思う。
どうやってこの危機から脱出するのか。
年始めの論文がある。
人口減少と流通業1/8付け
流通業界にとって2004年はかつてない重大な年になる。
流通革命が始まって以来、一貫して増え続けてきた日本の総人口が早ければ今年中にも減少に転じる可能性があるのだ。
スケールメリットの追求を至上命題としたこれまでの流通・サービスのビジネスモデルはもう使えない。
米国の後追いではない、独自の業態、システムを考え出さない限り将来の展望は開けない。
2004年にも総人口が減少へ
日本の総人口が間もなく減少に転じるのは疑いのない事実だが、いつ「その日」が訪れるかは誰にも分からない。
たとえ「その日」が来てもその時点で知ることはできず、後になって「あのころだったのか」と見当がつくだけだ。
国立社会保障・人口問題研究所は日本の将来人口に関して3つの推計を発表している。
出生率が想定される最も高い水準で推移した場合の「高位推計」、最も低い「低位推計」、その中間と仮定した場合の「中位推計」の3つだ。
「低位推計」では2004年に1億2748万人でピークに達し、2050年には9203万人まで減少する。
いずれにせよ、これから少なくとも50年、人口が減り続ける社会をわれわれは生きるわけだ。
人口増加を前提にしていた日本の流通モデル
その影響は言うまでもなくあらゆる分野に及ぶが、国内の市場に依存せざるをえない部分の大きい流通・サービス業はそのあり方を根本から考え直さなければならなくなる。
ウォルマートは独自の情報システムを武器に日本でも勢力拡大を狙うが・・・(アーカンソー州のスーパーセンター)
戦後の流通革命を考えればいい。スーパーマーケット、ショッピングセンター、ショッピングモール、フランチャイズチェーン、コンビニエンスストア、スーパーセンター……。流通近代化を支えたさまざまな新業態はいずれも米国で生まれ、日本に持ち込まれた。
米国が消費の先進国だったこともある。
米国流のライフスタイルに多くの日本人があこがれたこともある。
しかしそれらを輸入して社会に溶け込ませることができたのは米国と日本に共通の基盤があったからだ。
それは人口の増加にほかならない。人口が右肩上がりで増え続ける。それを前提に米国で開発された流通・サービスシステムが、人口が増え続ける日本にも適合した
極論すれば日本の流通業界は米国の後を追い、まねをするだけで発展することができた
しかしもはやそうはいかない。米国はこれからもかなりなペースで人口が増え続ける。
そこで今後生まれる新しい業態やシステムは、中国は取り入れることができても日本はできない
それどころかこれまで導入してきたものも場合によっては捨てなければならない
米国モデルによらない、人口減少社会に向けた新しいビジネス形態をどう築くか。残さ…
ご新築での生活おめでとうございます。
これからお家ますますのご発展をお祈りいたしております。
ここの欄でよかったのかな?
お祝い事ゆえお許しください。
巷の{ショウ}一月{ゴ}五月{ク}九月の引越しはしないほうがいい。とのことで12月でした?んでしょうか
実は私も1月を前にしての慌しい引越しでした。
その余波で昨日以来振り回されています。
急遽の引越しもさることながら、ネット環境がすこぶる悪く
午後4時頃から電柱から電話ケーブルの張替えとしていただきました。
昨日から、かかりっきりです。
それにしても時代でしょうね
お医者様とお話がいとも簡単にできるのですね
「医者と弁護士を友達に持て!」は生きぬく処世術。
庶民の隠れた知恵。まさに至言。
もっとも、かっては何をかいわんやの如きであったが、いかに底浅き安定した人生であったのであろう。
ゆえに理解できてない言葉でした。
無一文からの起業それも50才をすぎているとなればなおさらのこと
この場に及んで弁護士先生にご厄介になろうとは思いもしませんでした。
ネット社会はこのような高貴な方のご意見も簡単に聞ける有り難き時代であリますね。
重ねて新居おめでとうございます、・なにかアルゾ!営業マンの手?・
あわよくば太陽の恵みでの生活をしてはいただけませんか・ホラ!きた
自家発電による生活です・・・・しっかり営業してるガンバレ!笑い
おそらく一番安く施工できますもちろん施工技術も負けません
太陽光発電を設置されますと・・・・ クドイ!笑い。。怒り
まあ〜新築ゆえの〜お目出度き三河漫才としてお聞き流してください。
新築での生活まことにおめでとうございます。
お目出度いと言えば街に門松を見かける時節柄と相成った。
江平の日章学園を最初に見かけたが、泰平な生活であったのであろう。
私はそれどこでなく店舗の看板さえ頼んでない
どうしょう
風力・太陽光発電相談所
人と地球にやさしいアパデン宮崎
イイジャン!これでいこう。
取り付く島がないほどの仲間のみんな。
どうしたものであろうか。
ゆうさんや中村会長からの有り難きお言葉のはどれだけ勇気付けられてるか。
それにつけ、手のひらを返したような対応では所詮お里が知れよう者をとんだ再出発である。
給料「0」ではお話が違うではないか。
支出の帳尻は合ってるのにこれではどうしようもない。
閉じこもりからの脱却なくして進展はない。まるで閉所恐怖症
書を捨てて街に出よう
閉所恐怖症は精神不安定期の青春時代にあるのではまかろうか。
中学教科書で「山椒魚」に出会った。
太宰治が中学生だった1922年同人誌の井伏鱒二の作品を読んで
「座って折れないくらい興奮した」あの文庫で10ページ足らずの短い作品である。
志賀直哉の「城之崎にて」中勘助「銀の匙」に比するものである。
・・・・
山椒魚は悲しんだ
彼のすみかである岩屋から外に出ようとしたのであるが
頭が出口につっかえて外にでることができなかった
山椒魚は閉じた目蓋を開こうとはしなかった
何となればその自由とその可能性が与えられていただけだったからなのだ
・・・・
共存できえない一匹の蛙が岩屋に紛れ込む。
一瞬の緊張感!
岩屋の天井の窪みに隠れじっとしている
2年が過ぎ山椒魚が蛙に聞く
「お前は今どういうことを考えている」
「今でも別にお前のことをおこってはいないんだ」
これが確か結末の場面であった。・・・違ってるか?
社会人にならなければならぬ恐怖症に閉所恐怖症が加わり、
このとき以来抜けきれず備わってしまった。わたしの閉所恐怖症
これじゃぁ〜お医者様でも・草津の湯でも根が深くてなおりゃせぬワ〜
それにPTSが加わったのでまるで分裂症{差別用語と糾弾しないでくださ〜い!}患者ではないか。
岩穴で何もせず食べ考えてばかりいると岩穴から出られなくなるというたわいもない話しにである。
もっと史実からとった作品の芥川や森鴎外の作品の方がリアリテイーがあったろうにである。
わが宮崎で芥川や直木賞に最も近かった中村地平はその愛弟子であった。
さらにヤクルト池上監督の父たることから、DNAはあらゆる優位性があったのであろう。
酒を飲まぬ人はひとつの人生しか歩いていないは言いえて妙、卓見である。
ますます酒でも飲まぬ訳けにはいかないではないか。
お寺さんによると今年の一字は「災」と決まったようである。
私は切実にそう思う。
どうやってこの危機から脱出するのか。
年始めの論文がある。
人口減少と流通業1/8付け
流通業界にとって2004年はかつてない重大な年になる。
流通革命が始まって以来、一貫して増え続けてきた日本の総人口が早ければ今年中にも減少に転じる可能性があるのだ。
スケールメリットの追求を至上命題としたこれまでの流通・サービスのビジネスモデルはもう使えない。
米国の後追いではない、独自の業態、システムを考え出さない限り将来の展望は開けない。
2004年にも総人口が減少へ
日本の総人口が間もなく減少に転じるのは疑いのない事実だが、いつ「その日」が訪れるかは誰にも分からない。
たとえ「その日」が来てもその時点で知ることはできず、後になって「あのころだったのか」と見当がつくだけだ。
国立社会保障・人口問題研究所は日本の将来人口に関して3つの推計を発表している。
出生率が想定される最も高い水準で推移した場合の「高位推計」、最も低い「低位推計」、その中間と仮定した場合の「中位推計」の3つだ。
「低位推計」では2004年に1億2748万人でピークに達し、2050年には9203万人まで減少する。
いずれにせよ、これから少なくとも50年、人口が減り続ける社会をわれわれは生きるわけだ。
人口増加を前提にしていた日本の流通モデル
その影響は言うまでもなくあらゆる分野に及ぶが、国内の市場に依存せざるをえない部分の大きい流通・サービス業はそのあり方を根本から考え直さなければならなくなる。
ウォルマートは独自の情報システムを武器に日本でも勢力拡大を狙うが・・・(アーカンソー州のスーパーセンター)
戦後の流通革命を考えればいい。スーパーマーケット、ショッピングセンター、ショッピングモール、フランチャイズチェーン、コンビニエンスストア、スーパーセンター……。流通近代化を支えたさまざまな新業態はいずれも米国で生まれ、日本に持ち込まれた。
米国が消費の先進国だったこともある。
米国流のライフスタイルに多くの日本人があこがれたこともある。
しかしそれらを輸入して社会に溶け込ませることができたのは米国と日本に共通の基盤があったからだ。
それは人口の増加にほかならない。人口が右肩上がりで増え続ける。それを前提に米国で開発された流通・サービスシステムが、人口が増え続ける日本にも適合した
極論すれば日本の流通業界は米国の後を追い、まねをするだけで発展することができた
しかしもはやそうはいかない。米国はこれからもかなりなペースで人口が増え続ける。
そこで今後生まれる新しい業態やシステムは、中国は取り入れることができても日本はできない
それどころかこれまで導入してきたものも場合によっては捨てなければならない
米国モデルによらない、人口減少社会に向けた新しいビジネス形態をどう築くか。残さ…
春よこい!♪
2004年12月13日ほほかぶり 誰かわからぬ すす払い。
別に書き分ける必要はないと思われるが神社仏閣では「御煤払」。
「すすはらい」と「松迎え」とすればなお正確かもしれない。
13日は、「正月始め」や「正月事始」と呼よばれ、正月を迎える準備にとりかかる日。
古くから、「すすはらい」や「松迎え」を行う風習はあった。
私の育ったところもそうで「大掃除」の名称であった。
「すすはらい」は、年末の大そうじを指すわけだが、家の中や周囲をはき清め、一年の厄を取りはらうという意味もある。
「松迎え」は、門松や松かざりの材料を山にとりに行くことで、この日だけは、どこの山に入っても許された
鏡餅なる飾り餅の下に敷くウラジロ、クマザサ、そしてシャカキ
松の枝葉は近くの山にはなかなかなくて苦労したものであった。
集落の近くの山はそう深くなく林をなしていた。
この林はクヌギ、コナラ、カシ、シイノキ、エゴノキなど落葉広葉樹の平地林であった
この谷間にゴルフ場開発が持ち上がったが、次兄良富は自然を守り抜いてくれたと人づてに聞いた。偉い!
すこしずつ、杉ヒノキの人口植林の山が出てき始めてはいたが
「武蔵野雑木林」はこのようであったのでらろう。
武蔵野を愛した作家で初めて「雑木林」という名称をつけたのは
国木田独歩。
集落内では決して雑木林などとはいわず「山林ヤマ」と呼んでいた。
ヤマは薪炭や堆肥や防風など農業を営むうえの大切な生活の場だった。
食糧難と流通機構のない時代は自然の冷蔵庫で食料の宝庫であった。
グミ、ヤマモモ、トッポ、アケビ、しいのみ(コジノミ)ガラミ(ヤマブドウ)我が家のおかずにはこの時期はヤマイモ堀である。
春は新緑、夏は緑陰、秋は黄紅葉、冬は落葉と折々の季節感をはぐくんでくれチャンバラ遊び、落とし穴ゴッコ、忍者ゴッコ、隠れ家つくりと農作業の手伝いのないときは寸暇を割いて雑木林を遊びまわった。
ヤマは命をはぐくんでくれた。
川原集落には2つの墓地があった。
1ヵ所は5戸のみで袋が島と称する字の中心集落の離れに合った。
先輩方より受け継がれていた集落の墓掃除は子供会主催で子供のみで実施された
土葬もかなりあり、棺おけが朽ちるころになると大きな穴があき仏様さえ見えたことがある
その後に墓石の墓標を立てたものであった。
家の内では爺婆の死があり、外では集落内の方の死を見つめた。
牛、馬、愛犬ポチ多くの愛する生き物が死に別れた。
馬の死骸は馬の墓地に捨てた大きくて大変であった。
先日牛馬の墓地を通って見たら無くなっており、工場になってたが大丈夫?馬と牛だからイイものをウマとシカだったらどうなる?
このころの墓地は草も枯れていたが九州連山を成す「三財の山・寒川」からの空っ風で日曜日の朝の墓地は寒かった。
近くの稲藁を持ち出し枯れ草を燃やしながらで暖を取りとり作業をした。
墓標の左右の花立ては通常、竹で作られていたがこの時期は新しき竹製筒に変えられた
仕舞のはやき家は掃除が済む午後には、日ごろのシャカ木に変わり、松梅竹が竹の筒に飾られた。
家に帰ると畳干し、大掃除が待っている。
畳の下に敷いてある古新聞で鏡里や千代の山等歴代のスポーツ記事の部分が出ようものなら大変。
庭で行われている畳を棒でたたきごみを追い出す作業はしばし中断した。
粉薬が撒かれ蚤なる吸血虫の退治がなされ畳は夕方元に返された。
粉薬?DDTですよ!ひどいもんです。
たたみは中央でたたみ同士が二枚ついで三角形の頂点をなし太陽の陽を浴びた
宅地内には多くの神々がいた
あさの食事前にはそれらにすべて小さな杯で食事を差し上げた。
牛舎には馬頭観音、二つの社の氏神様、水神様、道祖神、タバコ乾燥場の火の神、かまどの神・・
神官さんもお見えになり、御幣を切って頂きそれぞれに飾った
家の中はひどいもので蒔きで暖をとってる囲炉裏のためススどこではない。
袋に入るほどのススの量が出てくるのだ
前が見えぬほどの大気中いっぱいのゴミたるススである。
ほほかぶり 誰かわからぬ すす払い。
名句でしょうが。
こんな状況はないもんな〜
寒く辛い中にも全員総出の「すすはらい」と「松迎え」であった。
丁度そのころ川に障子を洗いに行ってたリャカー、荷車が帰ってくる
真っ白な障子が家内風景を一遍させる。
生垣で枯れてるところに切り立ての真新しき竹が差し込まれ
正月が待たれる。
新しき衣類が供給されるのも楽しみだし、家業の手伝いのない遊べるのが何より楽し。
お年玉・・そんなもんありましょうや。
おまわりさんの叔父とか生け花の宮崎市内のお師匠さんがたより。
確か第1回県民栄誉賞を受賞されたんですよ!この井上のおばさん。凄い!
正月に囲炉裏で木を燃やすわけにも行かず残りの火の粉でコタツにする
よって燃料たるスミ木炭つくりである。
隣接する畑で土の中に木をくみ上げ土で覆う
今では焼き鳥やうなぎをおいしく焼き上げる木炭。
と言わないと理解できないであろうが唯一の暖をとる燃料であった。
消壷なるスミを作る壷も合った。五右衛門風呂を沸かしあげた釜にしたの「オオキリ」を消壷にいれスミを作った。
土を覆って何日間化かけて焼いた木炭とはまったく違うスミができた。
木炭スミとは異なる簡単な長持ちしないスミ。
木炭は一度焼かれて黒焦げになっているのに、なぜ再び燃料として使うことができるのか。
秘密は焼き方にある。普通に木材に火をつけると、木材の成分が満遍なく燃えていく。
一方、炭焼きは密封状態のかまで焼くため酸素の量が極めて少ない「蒸し焼き」になり、木に含まれる成分が燃えるというより、徐々に熱で分解されていく。
木材の主成分であるセルロースやリグニンを構成する水素や酸素がガスとなって抜けた結果、最後に炭素が残るのだ。
宮崎県木材利用技術センター所長の有馬孝禮・東京大名誉教授(木材物理学)は
「炭素は酸素と結びついて燃える。かまの中は酸素が少ないため、分解されない炭素が残りやすい。空気中で普通に燃やした木材も『消し炭』にはなるが、炭素量は木炭の方が圧倒的に多い」と話す。
では、炭が炎を上げずにじわじわと燃えるのはなぜか。
通常の燃焼は、木材中の成分が揮発したガスに火がついて燃えるため
、勢いよく炎があがり、燃焼スピードも速い。
一方、炭は既に揮発成分が抜けているため、空気中の酸素と炭の表面の炭素が結びついて燃える。常に風を送って酸素を供給しなければならないのはこのためで、燃焼時間も長くなる。
中でも長持ちするのが備長炭だ。セ氏1000度近い高温で焼くため不純物が少なく、原料のウバメガシは比重が重いので、炭素の密度も高くなるためだ。
全国一の備長炭の産地、和歌山県の県林業試験場の加藤万季研究員は
「備長炭はかまから出す直前に再度火を入れ、不純物を燃やし尽くす。その結果、長持ちする硬く締まった炭になり、料理店などで好まれるようだ」と永山悦子さんのレポートにそうあった。
残り少ない日々であるが、身につまされる。
「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』」といったのを読んだが、どうにもいけない。
やはり寄らば大樹、みんな、おりこうさん!である。
早く店舗をやらねばのたれ死に!である。
家賃20万にみあった営業はここでは無理である。
懐かしきなり、幼きころの年越し風景・・迎春!
ユーミン!奏でろ!♪♪「はるよこい!」♪♪♪
別に書き分ける必要はないと思われるが神社仏閣では「御煤払」。
「すすはらい」と「松迎え」とすればなお正確かもしれない。
13日は、「正月始め」や「正月事始」と呼よばれ、正月を迎える準備にとりかかる日。
古くから、「すすはらい」や「松迎え」を行う風習はあった。
私の育ったところもそうで「大掃除」の名称であった。
「すすはらい」は、年末の大そうじを指すわけだが、家の中や周囲をはき清め、一年の厄を取りはらうという意味もある。
「松迎え」は、門松や松かざりの材料を山にとりに行くことで、この日だけは、どこの山に入っても許された
鏡餅なる飾り餅の下に敷くウラジロ、クマザサ、そしてシャカキ
松の枝葉は近くの山にはなかなかなくて苦労したものであった。
集落の近くの山はそう深くなく林をなしていた。
この林はクヌギ、コナラ、カシ、シイノキ、エゴノキなど落葉広葉樹の平地林であった
この谷間にゴルフ場開発が持ち上がったが、次兄良富は自然を守り抜いてくれたと人づてに聞いた。偉い!
すこしずつ、杉ヒノキの人口植林の山が出てき始めてはいたが
「武蔵野雑木林」はこのようであったのでらろう。
武蔵野を愛した作家で初めて「雑木林」という名称をつけたのは
国木田独歩。
集落内では決して雑木林などとはいわず「山林ヤマ」と呼んでいた。
ヤマは薪炭や堆肥や防風など農業を営むうえの大切な生活の場だった。
食糧難と流通機構のない時代は自然の冷蔵庫で食料の宝庫であった。
グミ、ヤマモモ、トッポ、アケビ、しいのみ(コジノミ)ガラミ(ヤマブドウ)我が家のおかずにはこの時期はヤマイモ堀である。
春は新緑、夏は緑陰、秋は黄紅葉、冬は落葉と折々の季節感をはぐくんでくれチャンバラ遊び、落とし穴ゴッコ、忍者ゴッコ、隠れ家つくりと農作業の手伝いのないときは寸暇を割いて雑木林を遊びまわった。
ヤマは命をはぐくんでくれた。
川原集落には2つの墓地があった。
1ヵ所は5戸のみで袋が島と称する字の中心集落の離れに合った。
先輩方より受け継がれていた集落の墓掃除は子供会主催で子供のみで実施された
土葬もかなりあり、棺おけが朽ちるころになると大きな穴があき仏様さえ見えたことがある
その後に墓石の墓標を立てたものであった。
家の内では爺婆の死があり、外では集落内の方の死を見つめた。
牛、馬、愛犬ポチ多くの愛する生き物が死に別れた。
馬の死骸は馬の墓地に捨てた大きくて大変であった。
先日牛馬の墓地を通って見たら無くなっており、工場になってたが大丈夫?馬と牛だからイイものをウマとシカだったらどうなる?
このころの墓地は草も枯れていたが九州連山を成す「三財の山・寒川」からの空っ風で日曜日の朝の墓地は寒かった。
近くの稲藁を持ち出し枯れ草を燃やしながらで暖を取りとり作業をした。
墓標の左右の花立ては通常、竹で作られていたがこの時期は新しき竹製筒に変えられた
仕舞のはやき家は掃除が済む午後には、日ごろのシャカ木に変わり、松梅竹が竹の筒に飾られた。
家に帰ると畳干し、大掃除が待っている。
畳の下に敷いてある古新聞で鏡里や千代の山等歴代のスポーツ記事の部分が出ようものなら大変。
庭で行われている畳を棒でたたきごみを追い出す作業はしばし中断した。
粉薬が撒かれ蚤なる吸血虫の退治がなされ畳は夕方元に返された。
粉薬?DDTですよ!ひどいもんです。
たたみは中央でたたみ同士が二枚ついで三角形の頂点をなし太陽の陽を浴びた
宅地内には多くの神々がいた
あさの食事前にはそれらにすべて小さな杯で食事を差し上げた。
牛舎には馬頭観音、二つの社の氏神様、水神様、道祖神、タバコ乾燥場の火の神、かまどの神・・
神官さんもお見えになり、御幣を切って頂きそれぞれに飾った
家の中はひどいもので蒔きで暖をとってる囲炉裏のためススどこではない。
袋に入るほどのススの量が出てくるのだ
前が見えぬほどの大気中いっぱいのゴミたるススである。
ほほかぶり 誰かわからぬ すす払い。
名句でしょうが。
こんな状況はないもんな〜
寒く辛い中にも全員総出の「すすはらい」と「松迎え」であった。
丁度そのころ川に障子を洗いに行ってたリャカー、荷車が帰ってくる
真っ白な障子が家内風景を一遍させる。
生垣で枯れてるところに切り立ての真新しき竹が差し込まれ
正月が待たれる。
新しき衣類が供給されるのも楽しみだし、家業の手伝いのない遊べるのが何より楽し。
お年玉・・そんなもんありましょうや。
おまわりさんの叔父とか生け花の宮崎市内のお師匠さんがたより。
確か第1回県民栄誉賞を受賞されたんですよ!この井上のおばさん。凄い!
正月に囲炉裏で木を燃やすわけにも行かず残りの火の粉でコタツにする
よって燃料たるスミ木炭つくりである。
隣接する畑で土の中に木をくみ上げ土で覆う
今では焼き鳥やうなぎをおいしく焼き上げる木炭。
と言わないと理解できないであろうが唯一の暖をとる燃料であった。
消壷なるスミを作る壷も合った。五右衛門風呂を沸かしあげた釜にしたの「オオキリ」を消壷にいれスミを作った。
土を覆って何日間化かけて焼いた木炭とはまったく違うスミができた。
木炭スミとは異なる簡単な長持ちしないスミ。
木炭は一度焼かれて黒焦げになっているのに、なぜ再び燃料として使うことができるのか。
秘密は焼き方にある。普通に木材に火をつけると、木材の成分が満遍なく燃えていく。
一方、炭焼きは密封状態のかまで焼くため酸素の量が極めて少ない「蒸し焼き」になり、木に含まれる成分が燃えるというより、徐々に熱で分解されていく。
木材の主成分であるセルロースやリグニンを構成する水素や酸素がガスとなって抜けた結果、最後に炭素が残るのだ。
宮崎県木材利用技術センター所長の有馬孝禮・東京大名誉教授(木材物理学)は
「炭素は酸素と結びついて燃える。かまの中は酸素が少ないため、分解されない炭素が残りやすい。空気中で普通に燃やした木材も『消し炭』にはなるが、炭素量は木炭の方が圧倒的に多い」と話す。
では、炭が炎を上げずにじわじわと燃えるのはなぜか。
通常の燃焼は、木材中の成分が揮発したガスに火がついて燃えるため
、勢いよく炎があがり、燃焼スピードも速い。
一方、炭は既に揮発成分が抜けているため、空気中の酸素と炭の表面の炭素が結びついて燃える。常に風を送って酸素を供給しなければならないのはこのためで、燃焼時間も長くなる。
中でも長持ちするのが備長炭だ。セ氏1000度近い高温で焼くため不純物が少なく、原料のウバメガシは比重が重いので、炭素の密度も高くなるためだ。
全国一の備長炭の産地、和歌山県の県林業試験場の加藤万季研究員は
「備長炭はかまから出す直前に再度火を入れ、不純物を燃やし尽くす。その結果、長持ちする硬く締まった炭になり、料理店などで好まれるようだ」と永山悦子さんのレポートにそうあった。
残り少ない日々であるが、身につまされる。
「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』」といったのを読んだが、どうにもいけない。
やはり寄らば大樹、みんな、おりこうさん!である。
早く店舗をやらねばのたれ死に!である。
家賃20万にみあった営業はここでは無理である。
懐かしきなり、幼きころの年越し風景・・迎春!
ユーミン!奏でろ!♪♪「はるよこい!」♪♪♪
疲れました
2004年12月12日ネット環境がどうしようもない。
モデムの故障なのか配線が悪いのか
最初から故障とはどうにも納得がいかない。
すでに料金は済ましてある。
わが工事会社ゆえに静かに反省をしてみた。
授業料として考えるなら大変安いものだ。
こっちっら江戸っ子ダイ!待てねぇ〜
小三治の落語はいいような〜こんなんあったよ〜
え〜と、イライラしてて出てこない。
実にのんびりしててアクセスしない。
ADSLてェ〜こんなんかい。
だれかおしえてくださ〜い!
12月12日と重複する日は何の記念日が調べたが特にない。
バッテリーの日
日本蓄電池工業会(現在の電池工業会)が1985(昭和60)年に
「カーバッテリーの日」として制定。
1991(平成3)年に「バッテリーの日」と名称を変更した。
野球のバッテリーの守備位置が数字で1,2とあらわされることから。
この日同会では、セ・パ両リーグから最優秀バッテリー1組ずつを選考し表彰している。
電池工業会
電池の日 11月11日
電池月間 11月11日〜12月12日
漢字の日
日本漢字能力検定協会(漢検)が1995(平成7)年に制定。
「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字1字)の語呂合せ。
毎年、その年の世相を象徴する「今年を表現する漢字」を全国から募集し、この日に京都の清水寺で発表される。
日本漢字能力検定協会
清水寺
ダズンローズデー(Dozen Rose Day)
ブライダルファッションの第一人者である桂由美さんと内田和子さんが提唱。
12本の薔薇を愛情の印として恋人に贈る日。
聖バレンタインデー 2月14日
ホワイトデー 3月14日
オレンジデー 4月14日
メイストームデー 5月13日
(5月の嵐の日)
恋人の日 6月12日
サマーバレンタイン 7月 7日
セプテンバーバレンタイン・メンズバレンタイン 9月14日
恋人達の日(くつしたの日) 11月11日
遠距離恋愛の日 12月21日
毎月12日
パンの日
豆腐の日
毎月第2土曜日
お寺の日
ともかくも1週間分をここにようやく掲載セル事ができた。
丁度12日の如く、イチにイチにと声かけながら
なにか自分を刺激するものがあればいい。
励まし前に一歩進める。
どうにも年寄りになるほどそれができなくなるようである。
では若い人がそうとすれば、論外である。
この厳しき環境を切り開かざるして何がみえてこようぞ!
いつまでも泥舟に乗ってるがいい!
沈む前の船は、船底のネズミたちがまず騒ぎ出すと言う。
知恵あるものは準備をする
何も手をこまねいてみてるバカはない。
少なくとも傍観者であってほしい。
積極的に暴くほうに廻ってる役回りはやめてほしい。
大儀で始めたことではないのか。
全員の生き残り策
重箱の隅をつつくのは止めてほしい。
シナリの狂いは修正がきかない。
人間は最終場面でその人の度量が試される
今回は全員よく踏みとどまっていただいた。
男には女にないものが横たわっている。有り難い。
下部たる子宮で思考を発想するのか
上部たる頭で発想するのかの差である。
鷹揚にかまえなきゃ〜 バタバタすな!
女賢しくて牛売り損なうの言葉もありゃ〜
全員まとまれば何とか飯の種は探し出してやる!
もう乗り切れる状況ではない。
近環境を読めづして何のための高学歴者ぞ!
大きく動いてる隣の若者たちのほうがよ〜く時代の流れを読んでいる
社会を欺き続けるのも限度がある。
潔く白旗揚げて再出発がいい。
身の危険をおかしてまでする価値があるのか。
俺がやらずに誰ができよう
手段なんてあるもんか!
生き抜く知恵である。わが身だけのためではない。
がんばれ!きやんせさん。
自分で言っとる限り、仕方ない。
尋常なる疲れどこではない。
モデムの故障なのか配線が悪いのか
最初から故障とはどうにも納得がいかない。
すでに料金は済ましてある。
わが工事会社ゆえに静かに反省をしてみた。
授業料として考えるなら大変安いものだ。
こっちっら江戸っ子ダイ!待てねぇ〜
小三治の落語はいいような〜こんなんあったよ〜
え〜と、イライラしてて出てこない。
実にのんびりしててアクセスしない。
ADSLてェ〜こんなんかい。
だれかおしえてくださ〜い!
12月12日と重複する日は何の記念日が調べたが特にない。
バッテリーの日
日本蓄電池工業会(現在の電池工業会)が1985(昭和60)年に
「カーバッテリーの日」として制定。
1991(平成3)年に「バッテリーの日」と名称を変更した。
野球のバッテリーの守備位置が数字で1,2とあらわされることから。
この日同会では、セ・パ両リーグから最優秀バッテリー1組ずつを選考し表彰している。
電池工業会
電池の日 11月11日
電池月間 11月11日〜12月12日
漢字の日
日本漢字能力検定協会(漢検)が1995(平成7)年に制定。
「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」(いい字1字)の語呂合せ。
毎年、その年の世相を象徴する「今年を表現する漢字」を全国から募集し、この日に京都の清水寺で発表される。
日本漢字能力検定協会
清水寺
ダズンローズデー(Dozen Rose Day)
ブライダルファッションの第一人者である桂由美さんと内田和子さんが提唱。
12本の薔薇を愛情の印として恋人に贈る日。
聖バレンタインデー 2月14日
ホワイトデー 3月14日
オレンジデー 4月14日
メイストームデー 5月13日
(5月の嵐の日)
恋人の日 6月12日
サマーバレンタイン 7月 7日
セプテンバーバレンタイン・メンズバレンタイン 9月14日
恋人達の日(くつしたの日) 11月11日
遠距離恋愛の日 12月21日
毎月12日
パンの日
豆腐の日
毎月第2土曜日
お寺の日
ともかくも1週間分をここにようやく掲載セル事ができた。
丁度12日の如く、イチにイチにと声かけながら
なにか自分を刺激するものがあればいい。
励まし前に一歩進める。
どうにも年寄りになるほどそれができなくなるようである。
では若い人がそうとすれば、論外である。
この厳しき環境を切り開かざるして何がみえてこようぞ!
いつまでも泥舟に乗ってるがいい!
沈む前の船は、船底のネズミたちがまず騒ぎ出すと言う。
知恵あるものは準備をする
何も手をこまねいてみてるバカはない。
少なくとも傍観者であってほしい。
積極的に暴くほうに廻ってる役回りはやめてほしい。
大儀で始めたことではないのか。
全員の生き残り策
重箱の隅をつつくのは止めてほしい。
シナリの狂いは修正がきかない。
人間は最終場面でその人の度量が試される
今回は全員よく踏みとどまっていただいた。
男には女にないものが横たわっている。有り難い。
下部たる子宮で思考を発想するのか
上部たる頭で発想するのかの差である。
鷹揚にかまえなきゃ〜 バタバタすな!
女賢しくて牛売り損なうの言葉もありゃ〜
全員まとまれば何とか飯の種は探し出してやる!
もう乗り切れる状況ではない。
近環境を読めづして何のための高学歴者ぞ!
大きく動いてる隣の若者たちのほうがよ〜く時代の流れを読んでいる
社会を欺き続けるのも限度がある。
潔く白旗揚げて再出発がいい。
身の危険をおかしてまでする価値があるのか。
俺がやらずに誰ができよう
手段なんてあるもんか!
生き抜く知恵である。わが身だけのためではない。
がんばれ!きやんせさん。
自分で言っとる限り、仕方ない。
尋常なる疲れどこではない。
サービスでのビジネス化
2004年12月11日九電前のスカイ・ラークは静かで良い
朝のバスは30名定員に15名ぐらい。常連のようである。
公共機関で足は守ってほしいものだ。
9時すぎには席を取り粘る
コーヒーも確かにいい。
ご紹介していただいた方々それぞれ事業家のようである。
牧場用地は後日返事となった。
報道関係のご退職後の新規事業に太陽光発電とはいいことである。
2000万円の資本金で新会社を起こされるとの事である。
昨日の用地に使用方法を即座に出されてその思考方法には驚いた。
私にもその案がすぐには思いついたが言われた後では仕方ない。
久しぶり○○さんに会う。お元気そうであった。
借金の申し込みには答えが出せそうにもないようである。
新手の営業方法を体験できた。
自転車を求めている時の店のことである。
有線施設が私の前の人に当たった
しかし断っている。
サウンド・プラネットなるものである。
1ヶ月分の使用料金のみで権利を頂く
480チャンネルいいじゃないか。
6000円はチョット痛いが其れぐらいの贅沢は了として
店舗売上に賭けてみたい。
パソコンのネットを漸くつないだ
それがモデムの二番目のランプが点滅を繰り返して使えない。
接続料金のみ持っていかれたが動かない!
1週間ぶりのネットなのに今夜はダメである。
日記を愛読させて頂いているseiさんならこうではなかったろうに。
サービスはタダじゃない!
私どもAPAは納めた品物が美味く作動させえるまで何度となく無料出張する 「サービス」である
「サービス」というコトバには、どこか「無料で」「ご奉仕」というようなニュアンスが伴う。
悪名高き「サービス残業」の如きに。。
、
しかし世の中、お金を払ってでも受けたい「サービス」が増えつつあるようだ。
新聞によるとこうである
「サービス」に払うお金が増えている
総務省では毎年、全国の個人世帯を対象に行っている「家計調査」をまとめ「年報」を発行している。
その中に「財・サービス区分でみた消費支出の特徴」という項目がある。
そこでは、各世帯のこづかい、贈与金、仕送り金などを除いた消費先を「耐久財(自動車、家具、家電など)」
「半耐久財(主に衣料品)」
「非耐久財(食料、光熱・水道など)」
「サービス」
に分類して、それぞれの占める割合を示している。
それによると、昨年2003年の「財」と「サービス」の割合は、
「財」が58.1%、
「サービス」が41.9%で、ほぼ6対4の割合で「財」がやや多い。
現在のところ、日本人は「サービス」より「モノ」に多くお金を払っていることになる。
しかし、明らかに「サービス」への支出が増えていることがわかる。
15年前の1988年には、
「サービス」への支出はわずか36.8%。その後一貫して、
「サービス」消費は増えつづけ、現在の水準に達したのである。
「タダ」から新しいビジネスへ
「財」のうち、自動車、家電などの「耐久財」と、
食料など生活必需品が多い「非耐久財」はほぼ横ばいか、微減となっている。
ここ数年の「デジタル景気」などに表れているように、耐久財では新しい技術が登場して消費者の購買意欲をそそる。
一方食料品などは先進経済国となった現代では、消費に占める割合はすでに下がりきっていて、あとは世帯あたりの人数が変わらない限りそれほど変動しない。
消費に占める割合が下がったのは、「半耐久財」で、そのほとんどを衣料品が占める。
では日本人は衣服を買わなくなったのか、というとそうではない。
家計調査年報ではそれぞれの財・サービスごとの実質金額指数、すなわち値段の推移を示しているが、
それによると、「デフレ」が顕著となった1992年(平成4年)ころから、「非耐久財」や「サービス」の値段がゆるやかに下降傾向にあるのに対して、
「半耐久財」は急速に低下し、2003年には1992年の7割程度まで落ち込んでいる。
衣類だけがどんどん値下がりしてしまったのである。
逆に、耐久財は15年前から一貫して値上がりしている。
デフレが始まって以降もその傾向は変わらない。
次々と高額な新製品が登場しているゆえか。。
そして、サービスだ。
サービスの「価格」そのものは、1992年以降はゆるやかに下降傾向にあるが、世帯の消費に占める割合は上がりつづけている。
つまり、比較的安価ないろいろのサービスに、人々がお金を払うようになってきたのである。
インターネット接続料や携帯電話通話料といったIT関連の支出、高齢化に伴う医療費や介護サービス料の高騰など、
新しいビジネスは「サービス」を伴うものばかりだ。
今後もこれまで「タダ」と思われていたことに付加価値を見出して、新しいビジネスを生み出す動きが活発化するだろう。
社会は、確実に次のステップに進んでいる。
ここに新店舗の営業戦略が見えてくる。
新曲のなんか海賊版みたいなもの。
それが言いと言うんだから不思議だ。
ビジネス・チャンス!
深夜2時過ぎから酒盛り
冷え込みとともに燗酒が恋しくなるこの季節が来た
「酒は百薬の長」という言葉は漢の時代だそうな、
塩や鉄とともに酒の専売制度を強化して国庫収入を増やすためのキャッチフレーズだったという村山吉廣氏の説。
新しい酒をとらえて課税の網を強め、税収を確保するというのではあまりにも策がない。
なんたって「越の寒梅」・・・・新潟県北山の石本酒造
あの岩波新書で取り上げられて依頼ブームで手にいらない秘酒
そぅ!田中角栄ご愛飲ともいうあれである
のど越しが良い。足りなければ。。。もう一本!ダメ!
だったら「上善水の如し」でごまかせます。宮崎では 笑
二人故当然の如く完全に一本開けた。
タバコも久々解禁!
サービスでのビジネス化!
ありうるやも知れぬ
都農町の熱い赤ワインの不思議な味わいの季節でもある。
地元の風土のなかで育った酒とその飲み方はさまざまで奥行きが深い。
定率減税の廃止に絡んで検討されていた「第3のビール」の増税はないようである。
発泡酒に続いて人気が高いこの「ビール風味飲料」はエンドウマメを素材にした新商品。
税率が低く売れ行きがいいのが狙い撃ちされた格好で、「まがいもの」といった批判がメーカーを反発させた。
、自民党税調が来年度は見送る方針を固めたようだ、。
酒税の歴史は紀元前にたどりつくらしい。
ビールは日本の場合、酒税の6割近くを占める稼ぎ頭だから、
メーカーは材料の工夫などで税率の低い新製品を開発し、国はそれに課税強化を迫るといういたちごっこが今後も繰り返される。
サービスでのビジネス化
みんな抜け目ない。
儲かること始めないと家賃さえおぼつかない。
稼がねば。
朝のバスは30名定員に15名ぐらい。常連のようである。
公共機関で足は守ってほしいものだ。
9時すぎには席を取り粘る
コーヒーも確かにいい。
ご紹介していただいた方々それぞれ事業家のようである。
牧場用地は後日返事となった。
報道関係のご退職後の新規事業に太陽光発電とはいいことである。
2000万円の資本金で新会社を起こされるとの事である。
昨日の用地に使用方法を即座に出されてその思考方法には驚いた。
私にもその案がすぐには思いついたが言われた後では仕方ない。
久しぶり○○さんに会う。お元気そうであった。
借金の申し込みには答えが出せそうにもないようである。
新手の営業方法を体験できた。
自転車を求めている時の店のことである。
有線施設が私の前の人に当たった
しかし断っている。
サウンド・プラネットなるものである。
1ヶ月分の使用料金のみで権利を頂く
480チャンネルいいじゃないか。
6000円はチョット痛いが其れぐらいの贅沢は了として
店舗売上に賭けてみたい。
パソコンのネットを漸くつないだ
それがモデムの二番目のランプが点滅を繰り返して使えない。
接続料金のみ持っていかれたが動かない!
1週間ぶりのネットなのに今夜はダメである。
日記を愛読させて頂いているseiさんならこうではなかったろうに。
サービスはタダじゃない!
私どもAPAは納めた品物が美味く作動させえるまで何度となく無料出張する 「サービス」である
「サービス」というコトバには、どこか「無料で」「ご奉仕」というようなニュアンスが伴う。
悪名高き「サービス残業」の如きに。。
、
しかし世の中、お金を払ってでも受けたい「サービス」が増えつつあるようだ。
新聞によるとこうである
「サービス」に払うお金が増えている
総務省では毎年、全国の個人世帯を対象に行っている「家計調査」をまとめ「年報」を発行している。
その中に「財・サービス区分でみた消費支出の特徴」という項目がある。
そこでは、各世帯のこづかい、贈与金、仕送り金などを除いた消費先を「耐久財(自動車、家具、家電など)」
「半耐久財(主に衣料品)」
「非耐久財(食料、光熱・水道など)」
「サービス」
に分類して、それぞれの占める割合を示している。
それによると、昨年2003年の「財」と「サービス」の割合は、
「財」が58.1%、
「サービス」が41.9%で、ほぼ6対4の割合で「財」がやや多い。
現在のところ、日本人は「サービス」より「モノ」に多くお金を払っていることになる。
しかし、明らかに「サービス」への支出が増えていることがわかる。
15年前の1988年には、
「サービス」への支出はわずか36.8%。その後一貫して、
「サービス」消費は増えつづけ、現在の水準に達したのである。
「タダ」から新しいビジネスへ
「財」のうち、自動車、家電などの「耐久財」と、
食料など生活必需品が多い「非耐久財」はほぼ横ばいか、微減となっている。
ここ数年の「デジタル景気」などに表れているように、耐久財では新しい技術が登場して消費者の購買意欲をそそる。
一方食料品などは先進経済国となった現代では、消費に占める割合はすでに下がりきっていて、あとは世帯あたりの人数が変わらない限りそれほど変動しない。
消費に占める割合が下がったのは、「半耐久財」で、そのほとんどを衣料品が占める。
では日本人は衣服を買わなくなったのか、というとそうではない。
家計調査年報ではそれぞれの財・サービスごとの実質金額指数、すなわち値段の推移を示しているが、
それによると、「デフレ」が顕著となった1992年(平成4年)ころから、「非耐久財」や「サービス」の値段がゆるやかに下降傾向にあるのに対して、
「半耐久財」は急速に低下し、2003年には1992年の7割程度まで落ち込んでいる。
衣類だけがどんどん値下がりしてしまったのである。
逆に、耐久財は15年前から一貫して値上がりしている。
デフレが始まって以降もその傾向は変わらない。
次々と高額な新製品が登場しているゆえか。。
そして、サービスだ。
サービスの「価格」そのものは、1992年以降はゆるやかに下降傾向にあるが、世帯の消費に占める割合は上がりつづけている。
つまり、比較的安価ないろいろのサービスに、人々がお金を払うようになってきたのである。
インターネット接続料や携帯電話通話料といったIT関連の支出、高齢化に伴う医療費や介護サービス料の高騰など、
新しいビジネスは「サービス」を伴うものばかりだ。
今後もこれまで「タダ」と思われていたことに付加価値を見出して、新しいビジネスを生み出す動きが活発化するだろう。
社会は、確実に次のステップに進んでいる。
ここに新店舗の営業戦略が見えてくる。
新曲のなんか海賊版みたいなもの。
それが言いと言うんだから不思議だ。
ビジネス・チャンス!
深夜2時過ぎから酒盛り
冷え込みとともに燗酒が恋しくなるこの季節が来た
「酒は百薬の長」という言葉は漢の時代だそうな、
塩や鉄とともに酒の専売制度を強化して国庫収入を増やすためのキャッチフレーズだったという村山吉廣氏の説。
新しい酒をとらえて課税の網を強め、税収を確保するというのではあまりにも策がない。
なんたって「越の寒梅」・・・・新潟県北山の石本酒造
あの岩波新書で取り上げられて依頼ブームで手にいらない秘酒
そぅ!田中角栄ご愛飲ともいうあれである
のど越しが良い。足りなければ。。。もう一本!ダメ!
だったら「上善水の如し」でごまかせます。宮崎では 笑
二人故当然の如く完全に一本開けた。
タバコも久々解禁!
サービスでのビジネス化!
ありうるやも知れぬ
都農町の熱い赤ワインの不思議な味わいの季節でもある。
地元の風土のなかで育った酒とその飲み方はさまざまで奥行きが深い。
定率減税の廃止に絡んで検討されていた「第3のビール」の増税はないようである。
発泡酒に続いて人気が高いこの「ビール風味飲料」はエンドウマメを素材にした新商品。
税率が低く売れ行きがいいのが狙い撃ちされた格好で、「まがいもの」といった批判がメーカーを反発させた。
、自民党税調が来年度は見送る方針を固めたようだ、。
酒税の歴史は紀元前にたどりつくらしい。
ビールは日本の場合、酒税の6割近くを占める稼ぎ頭だから、
メーカーは材料の工夫などで税率の低い新製品を開発し、国はそれに課税強化を迫るといういたちごっこが今後も繰り返される。
サービスでのビジネス化
みんな抜け目ない。
儲かること始めないと家賃さえおぼつかない。
稼がねば。
この土地・・・山城
2004年12月10日牧場用地の件で午後2時江平ジョイフルで会う
高城町からご苦労さんな事である。よく動かれる。
国富の2町歩もの用地開発の現場に行く
驚きの現場である
優に30メートル以上の谷間でいったいどのくらいの土量がいるのだろうか
あまりにもの巨大な谷ゆえ驚いた狂気の沙汰どころではない。
困難では造成はとても不可能
ここは宮崎ですぞ!こんなとこ開発しようとするのがわからぬ。
本来なら開発行為、あるいは林地開発の届出、字図からして青線、赤線たる国有地の付け替え
触れるものではない一部の杉は90度に近い高さ20メートルぐらいを含んでいる
底地ごとが杉伐採の条件との事である
冗談じゃない!強い抗議は誹謗さえ帯びていた。
南側は八代城跡も看板があるので山道を小走りに急いだ
まったく人跡がない無人の地であるしばらく上ると頂上が開けてきた
。
国富町南俣川上原の東の端に位置する北方向、東方向に開けた山頂にある国富城である
付近の栗栖?地区からすれば40メートルぐらい高きこんもりした高さとなっており中世の典型的な山城である
東本丸で約30アール二の丸10アール三の丸10アール
下の地区の取添は35アールもあるという
昭和10年4月に建立された記念碑がある
知識のなさと待ってる車のクラクションもあり教育委員会の看板を急いだ
時代は戦乱の南北朝の天皇方についた伊東祐広は1336年北朝方の伊東祐持{従兄弟の孫}と土持宣栄{のりひで}
の連合軍の前に陥落し猪見城に落ちていき76歳の生涯を終えた
南九州を一時は島津氏を凌ぐほどの権勢を誇っていた伊東氏の48城のころかと思っていたが少し前のことのようである
安土城の信長以前は皆そうで山城である
日向の城は本城たる西都市都於郡とよく似通っている。
北と西に大きく大パノラマの都於郡城海抜100メートルぐらいの山頂なのに東は堀さえある
芭蕉の句碑さえ立つ大安寺下の堀跡
江戸期の宮崎市内の大淀川右岸河口に栄えた赤江俳人が立てたものであろう
断崖に囲まれた伊東氏本城である
考えるにつれ何故この地なのか。
源頼朝より下地されたからは当然としても私は
景行天皇の熊襲征伐の本拠地たる高屋跡であったからであろうと察する。
もしくは荘園制度の国づくりの国分寺が児湯たる西都に於かれていたからかもしれない。
「春は花秋は紅葉の帆を揚げて・・・浮き船の城」
と形容される自然の要塞
西方の戸敷、亀塚地区からの見上げる三の丸絶景は誰しも歴史のロマンに溺れてしまう
明治期の城跡が県庁でないのは札幌とわが宮崎県のみである。
宮崎市内は延岡の飛び地であったり、天領の地であった。
漱石の「ぼっちゃん」にして・・サルと人間の同居する延岡・・と形容された状況に変化はない。
高城町からご苦労さんな事である。よく動かれる。
国富の2町歩もの用地開発の現場に行く
驚きの現場である
優に30メートル以上の谷間でいったいどのくらいの土量がいるのだろうか
あまりにもの巨大な谷ゆえ驚いた狂気の沙汰どころではない。
困難では造成はとても不可能
ここは宮崎ですぞ!こんなとこ開発しようとするのがわからぬ。
本来なら開発行為、あるいは林地開発の届出、字図からして青線、赤線たる国有地の付け替え
触れるものではない一部の杉は90度に近い高さ20メートルぐらいを含んでいる
底地ごとが杉伐採の条件との事である
冗談じゃない!強い抗議は誹謗さえ帯びていた。
南側は八代城跡も看板があるので山道を小走りに急いだ
まったく人跡がない無人の地であるしばらく上ると頂上が開けてきた
。
国富町南俣川上原の東の端に位置する北方向、東方向に開けた山頂にある国富城である
付近の栗栖?地区からすれば40メートルぐらい高きこんもりした高さとなっており中世の典型的な山城である
東本丸で約30アール二の丸10アール三の丸10アール
下の地区の取添は35アールもあるという
昭和10年4月に建立された記念碑がある
知識のなさと待ってる車のクラクションもあり教育委員会の看板を急いだ
時代は戦乱の南北朝の天皇方についた伊東祐広は1336年北朝方の伊東祐持{従兄弟の孫}と土持宣栄{のりひで}
の連合軍の前に陥落し猪見城に落ちていき76歳の生涯を終えた
南九州を一時は島津氏を凌ぐほどの権勢を誇っていた伊東氏の48城のころかと思っていたが少し前のことのようである
安土城の信長以前は皆そうで山城である
日向の城は本城たる西都市都於郡とよく似通っている。
北と西に大きく大パノラマの都於郡城海抜100メートルぐらいの山頂なのに東は堀さえある
芭蕉の句碑さえ立つ大安寺下の堀跡
江戸期の宮崎市内の大淀川右岸河口に栄えた赤江俳人が立てたものであろう
断崖に囲まれた伊東氏本城である
考えるにつれ何故この地なのか。
源頼朝より下地されたからは当然としても私は
景行天皇の熊襲征伐の本拠地たる高屋跡であったからであろうと察する。
もしくは荘園制度の国づくりの国分寺が児湯たる西都に於かれていたからかもしれない。
「春は花秋は紅葉の帆を揚げて・・・浮き船の城」
と形容される自然の要塞
西方の戸敷、亀塚地区からの見上げる三の丸絶景は誰しも歴史のロマンに溺れてしまう
明治期の城跡が県庁でないのは札幌とわが宮崎県のみである。
宮崎市内は延岡の飛び地であったり、天領の地であった。
漱石の「ぼっちゃん」にして・・サルと人間の同居する延岡・・と形容された状況に変化はない。
紛失したもの
2004年12月9日12月12日はぁ大変です。おいつけ おいつけ!
「恐れるべきは失敗ではなく、失敗を恐れて何もしないまま
時間が過ぎ去ってしまうこと」
危機を乗り切ったユニクロの柳井社長
大先輩は怒り狂っていた。
楽な役であるの
あなたはなにをした!
新規会社の立ち上げがあるとしたら
ただ指をくわえてみてるだけではないか。
最後の?NEFを頼む
歴史が定める評価
山○さん宅に突然訪問したら在宅であった。
徒歩はきついがこれぞ!真心からの相談
途中携帯で話を折られ中断気味になってしまった。
ほんとにこんなときに登場されるこの方は気楽で言い〜
スカイ・ラーク九電前店
急遽の綱渡り。致し方ない。どうなることやら。
九電のパソコンで日記のチエックそりゃぁ〜〜アップ・ロードしてないもの。
新店舗でのパソコンはネット化されていない。
宿題がたまるが如くで辛い。
書くのも怖けりゃ書かぬのも自責の強迫観念となる。
西都に夕方向かう。甲○さんには多忙を割いていただいた。
見地グロックを四段突き上げることと車庫パネル取り付けを依頼された
高鍋より保険の件もあるので二○さんも知恵を借りる
新築ゆえ台風16、23号の処理は大変なことゆえである。
帰りしな遠近両用のメガネ取りに引き返すがどこにもない
日向カンランを頂いたゆえ喜び勇んでいたのが原因だろう
今次のことで何を無くしたのであろうか。
「恐れるべきは失敗ではなく、失敗を恐れて何もしないまま
時間が過ぎ去ってしまうこと」
危機を乗り切ったユニクロの柳井社長
大先輩は怒り狂っていた。
楽な役であるの
あなたはなにをした!
新規会社の立ち上げがあるとしたら
ただ指をくわえてみてるだけではないか。
最後の?NEFを頼む
歴史が定める評価
山○さん宅に突然訪問したら在宅であった。
徒歩はきついがこれぞ!真心からの相談
途中携帯で話を折られ中断気味になってしまった。
ほんとにこんなときに登場されるこの方は気楽で言い〜
スカイ・ラーク九電前店
急遽の綱渡り。致し方ない。どうなることやら。
九電のパソコンで日記のチエックそりゃぁ〜〜アップ・ロードしてないもの。
新店舗でのパソコンはネット化されていない。
宿題がたまるが如くで辛い。
書くのも怖けりゃ書かぬのも自責の強迫観念となる。
西都に夕方向かう。甲○さんには多忙を割いていただいた。
見地グロックを四段突き上げることと車庫パネル取り付けを依頼された
高鍋より保険の件もあるので二○さんも知恵を借りる
新築ゆえ台風16、23号の処理は大変なことゆえである。
帰りしな遠近両用のメガネ取りに引き返すがどこにもない
日向カンランを頂いたゆえ喜び勇んでいたのが原因だろう
今次のことで何を無くしたのであろうか。
言葉の裏
2004年12月8日小説としてこの日を書いたらどうなるのか。
マルクスが資本論の序に書いてるイソップ言葉でのお話と同じである。
怖ければなぞったがいい。
眼光紙背に徹して読む人はいまい。くわばら くわばら
第一節
「12月8日わが帝国陸海軍は本日未明米英軍と戦争状態に至り」
昭和16年は63年前になるが今だ歴史の十字架を背負わされてるわが国。
「パール、ハーバー」は宣戦布告なしで戦争を始めた野蛮国の象徴たる言葉だ。
あらゆる政治的場でたとえば国連常任理事国入りを阻んでる裏で囁かれている言葉である。
宣戦布告が遅れて一方的に戦争突入としモラルなき最低限の国家として最大級の侮蔑の言葉である。
何故そうなったのかNHKラジオ深夜便で領事館に勤務してた当人が語ってた
領事館では送別式の最中で気付くもが遅れ、圧倒的な量の電文に気付き翻訳に入ったが
宣戦布告文が遅れ、すでにハワイの真珠湾では空爆が始まっていた。
国際法に反する卑劣な行為と断罪されるわけである。
この作戦を実行するため、日本の艦隊は鹿児島湾で桜島をオアフ島に見立て
て何度も訓練を行い、ハワイに迫っている。
佐世保の現在のハウステンボス近くに今も立つ針尾無線塔から発せられた
「ニイタカヤマノボレ」
の信号を受けて、攻撃を開始。
完全に相手の虚をついたため、日本側の被害は少なく
、死者はわずか64名、失った航空機29機にすぎない。
指揮官の南雲忠一中将は敢えて2度目の攻撃は避けてほぼ無傷に近い状態で艦隊を返し、
「トラトラトラ」
の信号を発して、攻撃成功を報告し、帰還する
歴史のなぞとして残る第二の矢を発しなかったのか。
制空権を失った米艦隊は全滅していたのに何故?
僅か3ヵ月のみの勝利。、ミッドウェー開戦、ガダルカナルと太平洋戦線は奈落の果てに落ちていってしまう。
わが宮崎・高鍋の最後の海軍指揮官小沢の悲劇もここにある。
孫たる血縁者は高鍋町議会の議長就任「小沢」と先日の宮日紙報道もある。
しかしながらこれがやらせである事も判明しつつある。
今日の第第二節の様にである。
まさに茶番劇。
米ルーズベルト大統領は日本本国から米日本領事館に送られてきた宣戦布告の暗号文を、「すでに解読を終了していた」と、歴史を経て事実となっている。
ではなぜハワイへの備えの打電がなされなかったのかの幾多の疑問が残る。
戦争への大儀作りである。
よもや皆様は3年前の9,11のニューヨークの悲劇をわすれまい。
そして、それさえも、この「パール・ハーバー」とまったく同じ事があった実に恐ろしきレポを幾多となくお読みのはずだ。
米国とはそういう国なのである。何が民主主義の国なものか。
ここに宣言しましょう
ブッシュは必ずや国際裁判で裁かれる事となりましょう
ここまであたりが小説の第一節である。
小説の原題「悔悟」「改悟」「解語」・・どれがいいものやら。
次のような第二節としたい
そこには何日かぶりに見るただひたすらお願いする対象の人物がいた。
それがこれだからたまらない。
話がこれほどクルクルと変わる人物が他にいようか。探そうにもいまい。
午前中あれほどの言葉を投げかけていたのにこれである
目の前には知っているなにわ節人生の人情家がいる
表と裏のすこぶる表そのもの。
石原慎太郎東京都知事の作家と世界一の都市の君臨者の二面性である
辻井喬が堤西武と作家を兼ねてたが様である。
切り出しはこうであった
「ずいぶんと蓄財できたでしょうな」
「会社のほうからあなたが不利なことを自らはしない。」
「どこか県外に行ったらどうか」
矢継ぎ早の展開の早い会話が進んだ
ただし最初の段階のみではあった。
終了は22時30分過ぎと3時間にものぼる時間を裂いていただいていた
時間管理に鋭い私の分析である。賞味1時間でいい。
こののんびりさが、この店の売りでこの地を選択したのは経緯があった。
それもそうであろう場所が場所である
「ジョイフル」は抱えるサッカー・チーム「トリニータの如き」である。
ようやく東京進出を果たした九州の旅館業から飲食業への転出の勝ち組みジョイフルである。
目の前にいる表面に出てきてる理解よきときの姿で実に助かった。
公衆の面前では誰しも紳士になる
刺し違える勇気がありうるのか
私の死を決した必死の行動である。
第三節
この日を何故選んだか歴史を紐解けばわかる
この日はいわく因縁の日
われらの英雄力道山{1963}あの力道山が刺される。15日に死亡
1980ねんにはジョンレノンNY自宅前で射殺享年40?だったか。
針供養の日でもある。実は2月8日にやるところと、12月8日にやるところがある僧だが京都ではこの日ります。12月
8日は「事納め」といい、事つまり田畑に関する作業はこの日までに終わるべき日、
2月8日は「事始め」といい、田畑に関する作業をこの日から始める日、
とされていた。
そのため、その事納めの日、事始めの日に針供養を行うという風習が確立したようだ。
農民たる私には明らかにどちらをとりうるか自ずとわかろうと言うものだ。
一般に針供養に限らず全ての祭事について、関西では事納めの12月8日が重視
されることが多く、関東では事始めの2月8日が重視されることが多いのですが
実際には地域ごとにかなりのバラつきがあるそうだ。
包丁のない新婚家庭もあるぐらいで裁縫道具はまったくないのが日常やも知れぬ。
よって、一般の家庭で針供養をするところはほとんど無いはずだ。
毎年する宮崎の被服科のある・・高校、この1年間に折れた針を豆腐に刺して塚に
埋める針供養が行われたとある。良妻賢母のイメージは遥かかなた。
エポロン姿さえ今はない。
時代の変遷である。
優良なる会社員の姿。
全員をどう救うか
ただそれだけのこと。
至上命題を解くには孤高の人でなければならぬ。
志を遂げるには悪に徹するしかない。
大願成就はまず味方を欺くこと。
辛きは黒子役。
私にしかできぬ。
太陽光発電は地球を救う方策のひとつであるとの
岩おも砕く信念
12月8日雑音の中
「トラトラトラ」
「ニイタカヤマノボレ」
の雑音混じりに聞こえてくる。
あぶない!生き抜けるのか!
「12月8日わがきやんせ帝国陸海軍は本日未明米英軍と戦争状態に至り」
。
マルクスが資本論の序に書いてるイソップ言葉でのお話と同じである。
怖ければなぞったがいい。
眼光紙背に徹して読む人はいまい。くわばら くわばら
第一節
「12月8日わが帝国陸海軍は本日未明米英軍と戦争状態に至り」
昭和16年は63年前になるが今だ歴史の十字架を背負わされてるわが国。
「パール、ハーバー」は宣戦布告なしで戦争を始めた野蛮国の象徴たる言葉だ。
あらゆる政治的場でたとえば国連常任理事国入りを阻んでる裏で囁かれている言葉である。
宣戦布告が遅れて一方的に戦争突入としモラルなき最低限の国家として最大級の侮蔑の言葉である。
何故そうなったのかNHKラジオ深夜便で領事館に勤務してた当人が語ってた
領事館では送別式の最中で気付くもが遅れ、圧倒的な量の電文に気付き翻訳に入ったが
宣戦布告文が遅れ、すでにハワイの真珠湾では空爆が始まっていた。
国際法に反する卑劣な行為と断罪されるわけである。
この作戦を実行するため、日本の艦隊は鹿児島湾で桜島をオアフ島に見立て
て何度も訓練を行い、ハワイに迫っている。
佐世保の現在のハウステンボス近くに今も立つ針尾無線塔から発せられた
「ニイタカヤマノボレ」
の信号を受けて、攻撃を開始。
完全に相手の虚をついたため、日本側の被害は少なく
、死者はわずか64名、失った航空機29機にすぎない。
指揮官の南雲忠一中将は敢えて2度目の攻撃は避けてほぼ無傷に近い状態で艦隊を返し、
「トラトラトラ」
の信号を発して、攻撃成功を報告し、帰還する
歴史のなぞとして残る第二の矢を発しなかったのか。
制空権を失った米艦隊は全滅していたのに何故?
僅か3ヵ月のみの勝利。、ミッドウェー開戦、ガダルカナルと太平洋戦線は奈落の果てに落ちていってしまう。
わが宮崎・高鍋の最後の海軍指揮官小沢の悲劇もここにある。
孫たる血縁者は高鍋町議会の議長就任「小沢」と先日の宮日紙報道もある。
しかしながらこれがやらせである事も判明しつつある。
今日の第第二節の様にである。
まさに茶番劇。
米ルーズベルト大統領は日本本国から米日本領事館に送られてきた宣戦布告の暗号文を、「すでに解読を終了していた」と、歴史を経て事実となっている。
ではなぜハワイへの備えの打電がなされなかったのかの幾多の疑問が残る。
戦争への大儀作りである。
よもや皆様は3年前の9,11のニューヨークの悲劇をわすれまい。
そして、それさえも、この「パール・ハーバー」とまったく同じ事があった実に恐ろしきレポを幾多となくお読みのはずだ。
米国とはそういう国なのである。何が民主主義の国なものか。
ここに宣言しましょう
ブッシュは必ずや国際裁判で裁かれる事となりましょう
ここまであたりが小説の第一節である。
小説の原題「悔悟」「改悟」「解語」・・どれがいいものやら。
次のような第二節としたい
そこには何日かぶりに見るただひたすらお願いする対象の人物がいた。
それがこれだからたまらない。
話がこれほどクルクルと変わる人物が他にいようか。探そうにもいまい。
午前中あれほどの言葉を投げかけていたのにこれである
目の前には知っているなにわ節人生の人情家がいる
表と裏のすこぶる表そのもの。
石原慎太郎東京都知事の作家と世界一の都市の君臨者の二面性である
辻井喬が堤西武と作家を兼ねてたが様である。
切り出しはこうであった
「ずいぶんと蓄財できたでしょうな」
「会社のほうからあなたが不利なことを自らはしない。」
「どこか県外に行ったらどうか」
矢継ぎ早の展開の早い会話が進んだ
ただし最初の段階のみではあった。
終了は22時30分過ぎと3時間にものぼる時間を裂いていただいていた
時間管理に鋭い私の分析である。賞味1時間でいい。
こののんびりさが、この店の売りでこの地を選択したのは経緯があった。
それもそうであろう場所が場所である
「ジョイフル」は抱えるサッカー・チーム「トリニータの如き」である。
ようやく東京進出を果たした九州の旅館業から飲食業への転出の勝ち組みジョイフルである。
目の前にいる表面に出てきてる理解よきときの姿で実に助かった。
公衆の面前では誰しも紳士になる
刺し違える勇気がありうるのか
私の死を決した必死の行動である。
第三節
この日を何故選んだか歴史を紐解けばわかる
この日はいわく因縁の日
われらの英雄力道山{1963}あの力道山が刺される。15日に死亡
1980ねんにはジョンレノンNY自宅前で射殺享年40?だったか。
針供養の日でもある。実は2月8日にやるところと、12月8日にやるところがある僧だが京都ではこの日ります。12月
8日は「事納め」といい、事つまり田畑に関する作業はこの日までに終わるべき日、
2月8日は「事始め」といい、田畑に関する作業をこの日から始める日、
とされていた。
そのため、その事納めの日、事始めの日に針供養を行うという風習が確立したようだ。
農民たる私には明らかにどちらをとりうるか自ずとわかろうと言うものだ。
一般に針供養に限らず全ての祭事について、関西では事納めの12月8日が重視
されることが多く、関東では事始めの2月8日が重視されることが多いのですが
実際には地域ごとにかなりのバラつきがあるそうだ。
包丁のない新婚家庭もあるぐらいで裁縫道具はまったくないのが日常やも知れぬ。
よって、一般の家庭で針供養をするところはほとんど無いはずだ。
毎年する宮崎の被服科のある・・高校、この1年間に折れた針を豆腐に刺して塚に
埋める針供養が行われたとある。良妻賢母のイメージは遥かかなた。
エポロン姿さえ今はない。
時代の変遷である。
優良なる会社員の姿。
全員をどう救うか
ただそれだけのこと。
至上命題を解くには孤高の人でなければならぬ。
志を遂げるには悪に徹するしかない。
大願成就はまず味方を欺くこと。
辛きは黒子役。
私にしかできぬ。
太陽光発電は地球を救う方策のひとつであるとの
岩おも砕く信念
12月8日雑音の中
「トラトラトラ」
「ニイタカヤマノボレ」
の雑音混じりに聞こえてくる。
あぶない!生き抜けるのか!
「12月8日わがきやんせ帝国陸海軍は本日未明米英軍と戦争状態に至り」
。
眠っている狂気
2004年12月7日新たなる飛躍を目指し、艱難辛苦に立ち向かう確固たる意思がある。
12月4日に書いた通りである。
酒が狂わせた、理由はそれが言い。
恐怖からの脱却は余りにもリアリティーが強すぎる
パソコンの内蔵するソリテア
連続記録のギネス記録はいかほどなのか。
右肩、親指の付け根、人差し指の内側は脹れてたまらぬ。
ましてや首、腰はそれどころでなく悲鳴をあげている
昨夜9時過ぎころから日記の時間を除き先ほどまで連続実に20時間やりつづけた
私の内包する狂気の性格が久しぶりここに出たのか。
ソリテアのソフトを編み出した人の性格も含め思慮し攻略法を考え出した
兎に角ひとつおきの配られてるか配カードでクラッシュが配カードの中で起こりえる可能性を
高めるためにゲームを進めることが秘訣のようだ。
完成したときの最後の竜のごときウェーブは瞬間で惜しいがそれがいい
ひたすら愛読させていただいている日記のゲームとの記述の者の時間が多い方
昭和50年代の喫茶店のインベーダゲーム、やテトリス二始まり
スパーマリオを初期とする現在のストリー性を帯びたもの
私は一切ゲームをやったことがない
子供にはニンテンドウのファミコンやソニー{自分で買ったみたい?子らからのクレームが怖いゆえ}のすべてを買い与えた。
くるであろうコンピューター社会に順応させるための目論見であった。
なぜか。日本の将来の危機恐怖からである。
映画「慕情」を見てのカルチャー・ショックからである。
女医ジェファニー・ジョーンズと新聞記者との戦争秘話である。
日本はこの戦争を機に大きく羽ばたくことができた朝鮮戦争が背景であったと思う。
記者の打ち出す怒涛の如く文字のタイプライター
アルファベット27文字のみで書くことの基本が成立している
日本はいろは48文字だけでなく夥しい当用漢字の習得ができて初めてスタートラインに立てる
ましてやコンピューター社会の到来、どうやってタイプライターに変わる文字がありうるのか。
このような変換させる形でのキー・ボードをだれが創造できたであろう。
この文字開発、「HENNKANN」と打つ・・「へんか〜ん」・・漢字たる。。「変換」に変わる
確か一字ずつ台湾で作って行ったいった一太郎の開発者たる高知県が本社のジャ・・社の功績は大なるものがある
確かNHKの「挑戦者たち」プロジェクトXでずいぶん前に放映されてるはずだ
香港でしばしの時間を利用しての「慕情が丘」を散策
なんと駐車場と化していた。
あの映画のロケ地はこの世にはない。
宮崎にたとえれば丁度青島に向かう途中の堀切峠。
そこで偲べばいい。
時はヨン様・・うつろい、変わり身は早い。女の性
川○工務店にいく
活動再開、休みが凄い充電期間となった。
休み頂けりゃそりゃ〜勇気百倍飢えた動物の如く這いずり回る
お昼にメーカーのコロ○さん
「お元気で・・・・」
「兎に角もおげんきで・・・」
大メーカーの偏りこのような言葉を頂くと仕事冥利に尽きる。
夜本社に向かうこととした。
セキ○○・ハ○スの本社6階で継続仕事をぜひお願いし。末永きAPAの発展を記念した。
どこか尋常ではない。
眠っている狂気
かまやつの軽いノリで言い。
♪どうにか〜なるさ〜♪
12月4日に書いた通りである。
酒が狂わせた、理由はそれが言い。
恐怖からの脱却は余りにもリアリティーが強すぎる
パソコンの内蔵するソリテア
連続記録のギネス記録はいかほどなのか。
右肩、親指の付け根、人差し指の内側は脹れてたまらぬ。
ましてや首、腰はそれどころでなく悲鳴をあげている
昨夜9時過ぎころから日記の時間を除き先ほどまで連続実に20時間やりつづけた
私の内包する狂気の性格が久しぶりここに出たのか。
ソリテアのソフトを編み出した人の性格も含め思慮し攻略法を考え出した
兎に角ひとつおきの配られてるか配カードでクラッシュが配カードの中で起こりえる可能性を
高めるためにゲームを進めることが秘訣のようだ。
完成したときの最後の竜のごときウェーブは瞬間で惜しいがそれがいい
ひたすら愛読させていただいている日記のゲームとの記述の者の時間が多い方
昭和50年代の喫茶店のインベーダゲーム、やテトリス二始まり
スパーマリオを初期とする現在のストリー性を帯びたもの
私は一切ゲームをやったことがない
子供にはニンテンドウのファミコンやソニー{自分で買ったみたい?子らからのクレームが怖いゆえ}のすべてを買い与えた。
くるであろうコンピューター社会に順応させるための目論見であった。
なぜか。日本の将来の危機恐怖からである。
映画「慕情」を見てのカルチャー・ショックからである。
女医ジェファニー・ジョーンズと新聞記者との戦争秘話である。
日本はこの戦争を機に大きく羽ばたくことができた朝鮮戦争が背景であったと思う。
記者の打ち出す怒涛の如く文字のタイプライター
アルファベット27文字のみで書くことの基本が成立している
日本はいろは48文字だけでなく夥しい当用漢字の習得ができて初めてスタートラインに立てる
ましてやコンピューター社会の到来、どうやってタイプライターに変わる文字がありうるのか。
このような変換させる形でのキー・ボードをだれが創造できたであろう。
この文字開発、「HENNKANN」と打つ・・「へんか〜ん」・・漢字たる。。「変換」に変わる
確か一字ずつ台湾で作って行ったいった一太郎の開発者たる高知県が本社のジャ・・社の功績は大なるものがある
確かNHKの「挑戦者たち」プロジェクトXでずいぶん前に放映されてるはずだ
香港でしばしの時間を利用しての「慕情が丘」を散策
なんと駐車場と化していた。
あの映画のロケ地はこの世にはない。
宮崎にたとえれば丁度青島に向かう途中の堀切峠。
そこで偲べばいい。
時はヨン様・・うつろい、変わり身は早い。女の性
川○工務店にいく
活動再開、休みが凄い充電期間となった。
休み頂けりゃそりゃ〜勇気百倍飢えた動物の如く這いずり回る
お昼にメーカーのコロ○さん
「お元気で・・・・」
「兎に角もおげんきで・・・」
大メーカーの偏りこのような言葉を頂くと仕事冥利に尽きる。
夜本社に向かうこととした。
セキ○○・ハ○スの本社6階で継続仕事をぜひお願いし。末永きAPAの発展を記念した。
どこか尋常ではない。
眠っている狂気
かまやつの軽いノリで言い。
♪どうにか〜なるさ〜♪
見えてくるもの。
2004年12月6日きょうは12月12日パソコンがないため1週間分のアップ・ロードと記録で難儀している。
会社から解雇された。
大儀のためには私は生死を賭けて立ち上がるよって仕方ない。
ここんとこ、テレビ、洗濯機のない生活をしている、
そうすると見えないことが見えてくる
テレビは不自由ないが、まず、洗濯機のないのに呆然としている。
なんてェ〜ことはない。手で揉み洗いをすればいいのではないか。
それに気付くまでにどれだけの時間がかかったか
慣らされ流されている自立のない生活。
機械依存、人を頼る文明社会の拝金支配の社会システム
精神構造の変化が起こらぬはずがない。
じっくり手で洗うと下着を通じてわが体内の発した老廃物たる汚れがかすかな色となりすすぎ出される。
特に靴下の発するこの黒き汚れ!足が一番頑張っているのか。ご苦労さん!お前のおかげだとイトオシイ。
すべて手仕事。自己責任。自分にあった生活のすべて。
これを忘れてるようである。
絞って干すその行為では乾いた跡のいい仕上がりは期待できない。
シワクチャでゴザイマッルやはり機械がいいのかもしれない。
アッ!アイロン掛けはこれだからやってたんだ!
其れさえもなく蒲団の下に敷いていた
兄たる隆士の教えてくれた生きる知恵。
父母は多忙ゆえ年長者はすべての先生
成長の糧てにわたしどもはそれを経験している世代。
辛いことも生活の時間である。そこで精神が鍛えられた。よって切れるのに時間がかかる。
「きれる!」の精神的イライラを助長させた日本の生活風景。
「近頃のわかものは「きれる!」ので怖い!」の深層心理をのぞきこめた気がする。
油一滴取れない国が、油付けの自堕落な生活では
イラクまでわが軍を派遣せねばならぬのであろう。
ニードやフリターなる若者の仕事離れを助長させてるのであろう。
若者を一人前の社員に育てるのはめんどくさく、その時間的余裕は現場にはない。
きょうは出勤してくるのかハラハラの毎日ではタマッタモンジャァない!
もちろん!朝飯は当然!、食っていない!
出勤者の点検もしなくていい。
社会のあわただしさに埋没していたようだ。
幼きころは川で洗濯のすべてをやっていたではないか。
特にズックは自分でやらねばならぬ。
下着や農作業着は母の仕事で私は自転車に乗れるのでお手伝いのえらい立場。
「きやんせは・・えらいね!」のお褒めの言葉を母から頂くための無償の愛である。
それは多忙さからの逃避で休み気味の中で見えてきた
言葉は不思議なもので生きている
「休んだら・・・」の言葉を投げかけられハタときずいた。
「ゆっくりしてやれ!」
すべてはこれから発してるんではないか。
ことしの言葉の大賞は「チヨー気もちい!」
「人生いろいろ」や「たかが選手」は入選外とは、いやな感じがする
第1回は「オシンドローム」1984年{昭和59年}のことである。
「きんさんぎんさん」は1992年。「リベンジ」は1999年
ことばのマジックにはまり雑音の多すぎる社会の成り立ちにきずかされた。
兎に角も生きねばならぬ。多角的に考えながら。生きる方策を探りたい
私の愛読する日記のうさぎさんのお勉強をしておられる国ニュージーランド
農業多角化でめっきり羊が減ったそうである
「羊の背中に乗る国」とも形容されていた羊の国なのにである。
80年代7千万匹が今年は3900万匹国民一人当たり20匹が14匹となったそうだ。
ワイン用ブドウ、キウイなどの果物生産、酪農、植林など
より付加価値の高い輸出向け事業に特化しているようだ。
正確な統計では82年人口320万人で7030万匹一人当たり22匹
現在は人口410万人で3900万匹一人当たり9・5匹
22年前の半分以下になっている。
農業の多角がもたらしたもうひとつの反面。
社会の変化についていかないため日本の皇室を苦しめている。
個人的には男系の古き思想を私は払拭できない、その総意見たなものが改正を躊躇させている。
能天気なトップのみが「いいんじゃない!」といってるプレッシャー「0」総理
世界の流れは繁栄してるようなのだから凄い!?総理
英国・・・・・エリザベス2世・・1952年即位
男性優位チャールズ皇太子とダイアナ妃との間のウイリアム、ヘンリーと
いずれ007の女王陛下の国も男に変わる。
デンマーク・・マルグレーテ2世・1872年即位
11月に来日した最も古き王室男系の世襲
全国王が3人とも女の子であった
53年に憲法を改正して国王の兄弟は除かれた。
オランダ・・・ベアトリックス女王1980年即位83年の憲法改正で
スウェーデン・ビクトリア女王80年
長子が79年生まれの
ノルウエー・・90年憲法を改正デンマークの支配を受けていた600年ぶりに女王が誕生する
スペイン・・・もみとめている
タイ・・・・78年の改正
サウジ、ヨルダン、モロッコ
男は女の擁護者と聖典コーランに明記
精神文化上むずかしい
窮地である。どうなるのかさえまったくわからない。冷却期間。
よって、たかってこのときばかりと苛められてるようでは、ますます意固地になってしまう。
他者と自者の区別がついていない、ひとはひとでいい。
私には休んだり遊び半分での仕事感は似合わない。
兎に角も生きてゆかねばならぬ、
仕事には子供のころの無償の愛で取り組んできた
誤解をしてるのみである。
山門の阿吽の像であり、、阿修羅の如く前に進む。
邪魔をしないでほしい
あとは・・・人のいうにまかせよ!
会社から解雇された。
大儀のためには私は生死を賭けて立ち上がるよって仕方ない。
ここんとこ、テレビ、洗濯機のない生活をしている、
そうすると見えないことが見えてくる
テレビは不自由ないが、まず、洗濯機のないのに呆然としている。
なんてェ〜ことはない。手で揉み洗いをすればいいのではないか。
それに気付くまでにどれだけの時間がかかったか
慣らされ流されている自立のない生活。
機械依存、人を頼る文明社会の拝金支配の社会システム
精神構造の変化が起こらぬはずがない。
じっくり手で洗うと下着を通じてわが体内の発した老廃物たる汚れがかすかな色となりすすぎ出される。
特に靴下の発するこの黒き汚れ!足が一番頑張っているのか。ご苦労さん!お前のおかげだとイトオシイ。
すべて手仕事。自己責任。自分にあった生活のすべて。
これを忘れてるようである。
絞って干すその行為では乾いた跡のいい仕上がりは期待できない。
シワクチャでゴザイマッルやはり機械がいいのかもしれない。
アッ!アイロン掛けはこれだからやってたんだ!
其れさえもなく蒲団の下に敷いていた
兄たる隆士の教えてくれた生きる知恵。
父母は多忙ゆえ年長者はすべての先生
成長の糧てにわたしどもはそれを経験している世代。
辛いことも生活の時間である。そこで精神が鍛えられた。よって切れるのに時間がかかる。
「きれる!」の精神的イライラを助長させた日本の生活風景。
「近頃のわかものは「きれる!」ので怖い!」の深層心理をのぞきこめた気がする。
油一滴取れない国が、油付けの自堕落な生活では
イラクまでわが軍を派遣せねばならぬのであろう。
ニードやフリターなる若者の仕事離れを助長させてるのであろう。
若者を一人前の社員に育てるのはめんどくさく、その時間的余裕は現場にはない。
きょうは出勤してくるのかハラハラの毎日ではタマッタモンジャァない!
もちろん!朝飯は当然!、食っていない!
出勤者の点検もしなくていい。
社会のあわただしさに埋没していたようだ。
幼きころは川で洗濯のすべてをやっていたではないか。
特にズックは自分でやらねばならぬ。
下着や農作業着は母の仕事で私は自転車に乗れるのでお手伝いのえらい立場。
「きやんせは・・えらいね!」のお褒めの言葉を母から頂くための無償の愛である。
それは多忙さからの逃避で休み気味の中で見えてきた
言葉は不思議なもので生きている
「休んだら・・・」の言葉を投げかけられハタときずいた。
「ゆっくりしてやれ!」
すべてはこれから発してるんではないか。
ことしの言葉の大賞は「チヨー気もちい!」
「人生いろいろ」や「たかが選手」は入選外とは、いやな感じがする
第1回は「オシンドローム」1984年{昭和59年}のことである。
「きんさんぎんさん」は1992年。「リベンジ」は1999年
ことばのマジックにはまり雑音の多すぎる社会の成り立ちにきずかされた。
兎に角も生きねばならぬ。多角的に考えながら。生きる方策を探りたい
私の愛読する日記のうさぎさんのお勉強をしておられる国ニュージーランド
農業多角化でめっきり羊が減ったそうである
「羊の背中に乗る国」とも形容されていた羊の国なのにである。
80年代7千万匹が今年は3900万匹国民一人当たり20匹が14匹となったそうだ。
ワイン用ブドウ、キウイなどの果物生産、酪農、植林など
より付加価値の高い輸出向け事業に特化しているようだ。
正確な統計では82年人口320万人で7030万匹一人当たり22匹
現在は人口410万人で3900万匹一人当たり9・5匹
22年前の半分以下になっている。
農業の多角がもたらしたもうひとつの反面。
社会の変化についていかないため日本の皇室を苦しめている。
個人的には男系の古き思想を私は払拭できない、その総意見たなものが改正を躊躇させている。
能天気なトップのみが「いいんじゃない!」といってるプレッシャー「0」総理
世界の流れは繁栄してるようなのだから凄い!?総理
英国・・・・・エリザベス2世・・1952年即位
男性優位チャールズ皇太子とダイアナ妃との間のウイリアム、ヘンリーと
いずれ007の女王陛下の国も男に変わる。
デンマーク・・マルグレーテ2世・1872年即位
11月に来日した最も古き王室男系の世襲
全国王が3人とも女の子であった
53年に憲法を改正して国王の兄弟は除かれた。
オランダ・・・ベアトリックス女王1980年即位83年の憲法改正で
スウェーデン・ビクトリア女王80年
長子が79年生まれの
ノルウエー・・90年憲法を改正デンマークの支配を受けていた600年ぶりに女王が誕生する
スペイン・・・もみとめている
タイ・・・・78年の改正
サウジ、ヨルダン、モロッコ
男は女の擁護者と聖典コーランに明記
精神文化上むずかしい
窮地である。どうなるのかさえまったくわからない。冷却期間。
よって、たかってこのときばかりと苛められてるようでは、ますます意固地になってしまう。
他者と自者の区別がついていない、ひとはひとでいい。
私には休んだり遊び半分での仕事感は似合わない。
兎に角も生きてゆかねばならぬ、
仕事には子供のころの無償の愛で取り組んできた
誤解をしてるのみである。
山門の阿吽の像であり、、阿修羅の如く前に進む。
邪魔をしないでほしい
あとは・・・人のいうにまかせよ!
似使わないスロー。ライフ・・・懺犠の涙
2004年12月5日今日は12月12日日曜日であります。
1週間書いていませんでした。
会社のパソコンを使用していたからであります。
ようやく落ち着いてきました。
実は会社を解雇されました。私が専務と二人で立ち上げた宮崎一の太陽光発電工事の会社と自負しておりました。身から出た錆。やむエヌ。
書き綴らねばならぬことが山ほど在りますが、それでは私の社会生活が成立しないことになりましょう。
男の特権たる立ちションベン一つできない完全に体系化された、盗聴法さえある現実社会であります。
愛読しているSORAさんの日記に先日書いてありましたが、日記とは何ぞやであります。
やはり、消去はおこりうるやもしれません
ネットは所詮バーチャルの世界に過ぎません
諸事情で人間は生きております。やはり直接でないと伝わりません
ご注意あれ!正直もん!の江戸っ子SORAさま。
ただ、残念なのは、江戸の空気を取り入れる年一度の楽しみの時間が取れず、SORAさんのお店・散策が年内無理になったのが残念!
落ち着いたら機会を作ります。お楽しみはこれからだ!
書こうとしていた1週間分を随時記録として残したい。
スロー・ライフ、スロー・フードは営業職を休まぬ限り望むべきことではない。
なりっぱなしの携帯も時代の要請
スローなる生活が守れるはずもない。
運転中は、法規違反になり厳しき状況である。
鉄道社内はマナー違反
「社内での携帯はご遠慮ください!」
薩摩に向かう列車の箱は別世界で、癒しのの箱
喧騒から離れ別天地。
バカ丁寧な社内説明がやけにうるさく誰のためにしているのか
どうも乗りなれたるお客様のためにあるのではないのは確かのようだ
大都市ではあるまいてみんな存じてることのみ。
不気味なほど静かなユーレイパスで欧州を旅行するかいい。
「ドアにご注意ください!」
次停車を継げるアナウンスご丁寧にもテープの女性の声と肉声の男性の車掌と
「優先席は・・・・」
「。。。ご協力ください!」
田野を過ぎ青井岳
心地よい線路の響きである。
わけ入ってもわけいつてもあおいやま
旅のほとんどは自らの足に頼った。牧水。山頭火の時代。
自由奔放に行きぬけた時代が羨ましい
帰りの7時過ぎの青井岳付近
突然電源の故障で社内は真っ暗
お客さんもそうだが、車内放送が早かった。
ゆえに誰一人席を立とうとはせずパニックにはならなかった。
映画「暴走機関車」とかを思い浮かべたものだ。
鉄道ではデビット・ジャンセンの悲哀と苦渋にみちた顔が印象深い
それでもその場その場で正義を貫くヒューマン性
冷徹な計算に胸を熱くし、ワクワク・ドキドキさせた少年期の感動はまったく色あせていない
テレビでの1時間映画「逃亡者」のことである。
「職業・・・医師」
「身に覚えのない妻殺しの罪に・・・・」
納屋吾郎の低くそいでいて澄み切った聞き読みが怖ささえ感じた
鋭いビートに変わっている心臓の脈打つおとが全身に伝わり身震いさえしている
NHKの「事件記者」の輪転機が廻るトップ場面にもそれを感じた。
かってのテレビは現実離れしていてもリアリティーがあつた
心臓発作で死人が出たほどである プロレスのまちがい?
生きることは実に辛い
私自体もちろん折り合いはつける
もう少し今もう少し時間をいただけないものだろうか。
どうにも無理のようである。
社会の進展はかくも厳しき決まりを作った
停電・停車中の山之口青井岳
「古今山之口の記録」が鉱脈社から出版された
16世紀なかば都城主北郷氏は伊東氏より山の口を奪還した
1614年薩摩は直轄地となり外城とした。
領内総検地で耕作地を捻出して、八代、鹿屋、高岡から受け入れた
特徴的氏はそのあたりからきてい
執行した郷士、年寄りのすがたが偲べる
常に為政者はやさしく会ったものである。
生活の基本は其れであるべきだが先進国家ではそうは行かない。
坂元イキさん所有の「三の下」「四の下」が種本
1746年の霧島大噴火はきめこまやか。
被害復旧は参考になる
さらに鉄道はいろんなことを考えさせる
「鉄道員」はスト破りしても鉄路を愛した父が痛々しい
息子はそのことが原因で苛められながらも父を誇りに思った
宮崎市シーガイヤでは今日小泉首相も開会挨拶をし日帰りの国際自由労連の世界大会。
152ヵ国1200人が参加してると言う
会話の多くが興味・目的で聞いている輩がいたとしたら喋る意味はない。
利便なる携帯もおかれた場所で迷惑にさえなる。
薩摩のお客さん宅では屋根瓦を変えたばかりであった。
次回来訪の折りには契約にいたろう
牧場用地はこれから施設が稼動してからの太陽光発電設備である。
実に息の長い取り組みが待たれる。
己一人でもやりぬくしかない
多くの難関を乗り越えて。
宮日紙のきょうのことば
できることでもできぬとおもえばできぬ。
できぬとみえてもできると信じるがためにできることがある。
三宅雪嶺{1860年〜1945年}
もちろん成功に裏打ちされた努力があればこそである。
まったくの「0」からの出発
どこから手をつけていけばよいのやら。
まずは世間体さえ通らぬ状況ではどうしようもない。
かなり突っ走ってきた
一つずつ焦らずひとつずつ。
一寸先は闇は政治の世界だけではない
それにしては認識のどこかがちがう。
スロー・ライフ、スロー・フード
似合わないゆえにこそ挑戦すべきであろう
泣いてたまるか!
男は大儀で死ぬのは本望である
1週間書いていませんでした。
会社のパソコンを使用していたからであります。
ようやく落ち着いてきました。
実は会社を解雇されました。私が専務と二人で立ち上げた宮崎一の太陽光発電工事の会社と自負しておりました。身から出た錆。やむエヌ。
書き綴らねばならぬことが山ほど在りますが、それでは私の社会生活が成立しないことになりましょう。
男の特権たる立ちションベン一つできない完全に体系化された、盗聴法さえある現実社会であります。
愛読しているSORAさんの日記に先日書いてありましたが、日記とは何ぞやであります。
やはり、消去はおこりうるやもしれません
ネットは所詮バーチャルの世界に過ぎません
諸事情で人間は生きております。やはり直接でないと伝わりません
ご注意あれ!正直もん!の江戸っ子SORAさま。
ただ、残念なのは、江戸の空気を取り入れる年一度の楽しみの時間が取れず、SORAさんのお店・散策が年内無理になったのが残念!
落ち着いたら機会を作ります。お楽しみはこれからだ!
書こうとしていた1週間分を随時記録として残したい。
スロー・ライフ、スロー・フードは営業職を休まぬ限り望むべきことではない。
なりっぱなしの携帯も時代の要請
スローなる生活が守れるはずもない。
運転中は、法規違反になり厳しき状況である。
鉄道社内はマナー違反
「社内での携帯はご遠慮ください!」
薩摩に向かう列車の箱は別世界で、癒しのの箱
喧騒から離れ別天地。
バカ丁寧な社内説明がやけにうるさく誰のためにしているのか
どうも乗りなれたるお客様のためにあるのではないのは確かのようだ
大都市ではあるまいてみんな存じてることのみ。
不気味なほど静かなユーレイパスで欧州を旅行するかいい。
「ドアにご注意ください!」
次停車を継げるアナウンスご丁寧にもテープの女性の声と肉声の男性の車掌と
「優先席は・・・・」
「。。。ご協力ください!」
田野を過ぎ青井岳
心地よい線路の響きである。
わけ入ってもわけいつてもあおいやま
旅のほとんどは自らの足に頼った。牧水。山頭火の時代。
自由奔放に行きぬけた時代が羨ましい
帰りの7時過ぎの青井岳付近
突然電源の故障で社内は真っ暗
お客さんもそうだが、車内放送が早かった。
ゆえに誰一人席を立とうとはせずパニックにはならなかった。
映画「暴走機関車」とかを思い浮かべたものだ。
鉄道ではデビット・ジャンセンの悲哀と苦渋にみちた顔が印象深い
それでもその場その場で正義を貫くヒューマン性
冷徹な計算に胸を熱くし、ワクワク・ドキドキさせた少年期の感動はまったく色あせていない
テレビでの1時間映画「逃亡者」のことである。
「職業・・・医師」
「身に覚えのない妻殺しの罪に・・・・」
納屋吾郎の低くそいでいて澄み切った聞き読みが怖ささえ感じた
鋭いビートに変わっている心臓の脈打つおとが全身に伝わり身震いさえしている
NHKの「事件記者」の輪転機が廻るトップ場面にもそれを感じた。
かってのテレビは現実離れしていてもリアリティーがあつた
心臓発作で死人が出たほどである プロレスのまちがい?
生きることは実に辛い
私自体もちろん折り合いはつける
もう少し今もう少し時間をいただけないものだろうか。
どうにも無理のようである。
社会の進展はかくも厳しき決まりを作った
停電・停車中の山之口青井岳
「古今山之口の記録」が鉱脈社から出版された
16世紀なかば都城主北郷氏は伊東氏より山の口を奪還した
1614年薩摩は直轄地となり外城とした。
領内総検地で耕作地を捻出して、八代、鹿屋、高岡から受け入れた
特徴的氏はそのあたりからきてい
執行した郷士、年寄りのすがたが偲べる
常に為政者はやさしく会ったものである。
生活の基本は其れであるべきだが先進国家ではそうは行かない。
坂元イキさん所有の「三の下」「四の下」が種本
1746年の霧島大噴火はきめこまやか。
被害復旧は参考になる
さらに鉄道はいろんなことを考えさせる
「鉄道員」はスト破りしても鉄路を愛した父が痛々しい
息子はそのことが原因で苛められながらも父を誇りに思った
宮崎市シーガイヤでは今日小泉首相も開会挨拶をし日帰りの国際自由労連の世界大会。
152ヵ国1200人が参加してると言う
会話の多くが興味・目的で聞いている輩がいたとしたら喋る意味はない。
利便なる携帯もおかれた場所で迷惑にさえなる。
薩摩のお客さん宅では屋根瓦を変えたばかりであった。
次回来訪の折りには契約にいたろう
牧場用地はこれから施設が稼動してからの太陽光発電設備である。
実に息の長い取り組みが待たれる。
己一人でもやりぬくしかない
多くの難関を乗り越えて。
宮日紙のきょうのことば
できることでもできぬとおもえばできぬ。
できぬとみえてもできると信じるがためにできることがある。
三宅雪嶺{1860年〜1945年}
もちろん成功に裏打ちされた努力があればこそである。
まったくの「0」からの出発
どこから手をつけていけばよいのやら。
まずは世間体さえ通らぬ状況ではどうしようもない。
かなり突っ走ってきた
一つずつ焦らずひとつずつ。
一寸先は闇は政治の世界だけではない
それにしては認識のどこかがちがう。
スロー・ライフ、スロー・フード
似合わないゆえにこそ挑戦すべきであろう
泣いてたまるか!
男は大儀で死ぬのは本望である